​​ 過日、桜が終わりつつある一般公開された皇居の一部、乾通り(坂下門から乾門まで)を歩いた(下の写真の上=坂下門、下の写真の下=乾門)。​​


 

 

初めての皇居の緑​

​ 実は、皇居に入るのはこれが初めてで、坂下門から中に入ったら、空気が一変、涼やかで清浄な風が顔を通り過ぎた。さすが都心の広大な緑地帯の一部である。皇居の緑の存在が、東京都心の都市気候をいくぶんか和らげていることを実感した(写真=静謐な雰囲気の道灌濠)。​

 

 

 皇居に初めて、と書いたのは、僕の皇室に対する昔からの忌避感があったからだ。青年まで、母子家庭の極貧家庭で育ったから、学生時代はマルクスボーイであり、皇室など特権階級と思っていた。だから新年参賀にも行く気など全く無かった。

 それで、地下鉄二重橋前から延々と歩いて一般公開に向かったのは、人生初めての経験であったわけだ。坂下門にたどり着くまで、空港並みの持ち物の検査とボディチェックを受けた。
 

集団就職した娘が老母を東京見物させる歌​

 その途中に、二重橋を初めて間近で観て、唐突に1957年に発表された島倉千代子の『東京だョ おっ母さん』の歌を思い出した。

 歌は、分かりやすい。田舎から集団就職で出てきた娘が、故郷から母を東京に招き、東京見物に案内する歌だ。当時、集団就職は珍しい風景ではなかったし、貧しい農村の老いた女性が東京に来る機会などほとんどなかったから、こうした光景はあちこちで見られたはずだ。アニメ映画『ALWAYS三丁目の夕日』は、翌年1958年の設定だから、あれを観ると、この時代を想像しやすい。

 歌の1番が、娘が手を引いて老母を皇居前に案内する場面だ。

 「ここが ここが 二重橋

  記念の写真を とりましょね」

 当時のお上りさんの定番が皇居の二重橋前の撮影だから、いかにも、と分かりやすいのだ。
 

次に案内した靖国に眠る兄​

 ところが、歌の次の2番は分かりにくい。

 

 「やさしかった 兄さんが

  田舎の話を ききたいと

  桜の下でさぞかし 待つだろ

  おっ母さん あれが あれが 九段坂

  逢ったら泣くでしょ 兄さんも」

 

 明示されていないが、出征して戦死した兄を持つ娘が、老母を皇居の次に靖国神社に案内する風景である。この歌は知っていた僕も、2番の意味を不覚にも深く考察しなかった。先に東京に来ていた兄さんと、九段坂のどこかで待ち合わせしているのだろう、くらいにしか思わなかったのだ。しかし、それならなぜ兄さんは逢ったら泣くのか? それが、前述の意味なのである。
 

「靖国」を明示できなかった時代の反映​

​ 「桜の下」というのは、靖国神社(写真)を指す。しかしそれなら、なぜ「桜の靖国」と言わなかったのか。それで、発表された年、1957年に思いが至る。​

 

 

 その年は、戦後まだ12年で、政界では「非武装中立」を掲げる社会党が3分の1近くの議席を持ち、メディア(当時は主に新聞)は反戦争、反自衛隊の雰囲気が充満していた時だった。レコード会社も作詞家も、反発を恐れ、とても「靖国」と明示できなかったのだろう。

 思えば、自由の中の「不自由」な世であった。

昨年の今日の日記:「残酷なドボルニコフを総司令官に任命しドンバス攻略にかけるロシア侵略軍、ウクライナ防衛軍との間に第2次世界大戦以来の大激戦か」