ずいぶんと古い小説を取り上げたものだな、この筆者の学生時代にはもう忘れられていたはずの本だが、よくぞ読み、そして気に留めたものだ――それが、9月9日付日経新聞1面コラムの「春秋」の冒頭の記述で感じたことだった。
80年前の小説だが今も瑞々しい魅力
春秋氏が取り上げたのは、『されどわれらが日々――』である(写真)。
1963年、後に作家となるドイツ文学者、柴田翔(写真=同書の口絵の西ドイツ留学時代の若き日の柴田翔。芥川賞受賞時には、西ドイツにいて日本にはいなかった)が初めて同人誌に発表した小説で、1964年上期の芥川賞の受賞作である。実に80年前の小説だ。しかし今も、瑞々しい魅力を失ってはいない。
1955年の六全協(日本共産党第6回全国協議会:写真=六全協と同時に開催された日本共産党結党33周年記念式典)の頃の左翼運動に挫折した学生活動家の挫折とそれが心に残した傷、それと関連した女性の新たな歩みを描く(なお六全協については、2011年4月17日付日記:「没後59年の1人の天才少女画家と作家・渡辺淳一、そして戦場カメラマン・岡村昭彦」に少し触れておいた)。
今では誰も読まないだろうが『されどわれらが日々――』は、芥川賞受賞直後から1970年代まで、学生運動活動家や青年知識人の必読書であった。
数十年ぶり、これで4度目
コラム「春秋」の記述を読んで、「あれ、そうだったかな?」と思ったので、何度もの引っ越しの際にも捨てなかった『されどわれらが日々――(文藝春秋社)』を書庫から取り出し、茶色く変色したページを繰り始めた。一日で読了した。
同書見返しに、過去3度読んだ履歴が日付入りでメモられている。今度で4回目だった。しかし過去3度は、いずれも若い頃だった。数十年ぶりに読み始めても、今も、それに共感できるかどうか、分からなかった。だが、若い頃の感銘は、今も変わらないことを確認できた。
最初は高校生の頃、その後、社会人になって再読、三読し、深く感銘
最初に読んだのは、高校生の時だった。六全協の意味も全く知らず、それが党の方針に忠実に従った多くの学生党員に深い挫折感を与えたことも知らなかったから、内容は全く理解できなかった。
大学生、そして社会人になって、マルクス主義にかぶれた頃から脱皮し、少しは社会運動を相対化できるようになって、さらに2回、読んだ。そして描かれた学生たちの六全協後の生き方(と死)や考えに、深く感銘を受けた。
すっかり茶色く変色したページを繰っていくと、あちこちに傍線がふってあり、また書き込みもしている。当時、いかに心を捕らえられたかがうかがえるのだ。
登場人物の混同?
そして218ページを、その日のうちに一気に読み通した。それで、分かった。春秋氏は、『されどわれらが日々――』を浅読みしていたことを。
それは決して、「政治、社会、国際情勢と、あらゆる質問に答える男子学生。しかし指導者と仰ぐ政治からの路線転向で、自分が借り物の知識を振りかざしていたと気づく。その後悔を聞いた女子学生の心は相手から離れ、2人は自らの足でしっかりと立つことから社会人としての歩みを始める」という登場人物群像ではなかった。
春秋氏が例に挙げた共産党東大細胞のリーダーの野瀬は、六全協後に地下から表に表れてから、むしろ自分から東京女子大学生(節子)を避けたのだ。そして数年後、彼女が離れていくのは、共通の友人で遠縁だった婚約者(「私」)であった。野瀬と「私」とが混同されている。
学生たちの生き方を翻弄した六全協
4度目の再読でもやはり胸を打ったのは、賢いが心が繊細に過ぎた東大生佐野が、日本共産党の武装闘争方針に従い、地下に潜り軍事訓練を積みながら、自分の弱さ、怖さ、恐怖にさいなまれ、六全協の突然の方針転換の後に大学に戻りながら、もはやその欺瞞に耐えられずに党を離れ、そして自死することである。佐野のような自死を選んだ学生たちは、六全協の日本共産党の突然の方針転換で、それまで党の方針に忠実に従った若い活動家の間に少なくなかったのだ。日本共産党は、そうした純粋な若者たちに全く責任を取らなかった。
一方で、野瀬のように党を離れて大企業に就職し、幹部候補生の道を歩んだ者も多かった。
今の日本は、そのような社会ではない。しかし、世界には香港で、ベラルーシで、シリアで、アフガンで、今もそうした若者が作られているだろう。
いささかピント外れの日経春秋氏の「名文」に接して、もう少し『されどわれらが日々――』を愛して欲しかったと残念に思う。
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