やっぱり犠牲者が出ていた。ヨルダンの世界遺産ペトラ遺跡で9日に発生した大洪水では、11人の死者が出ていた。
 テレビで流れるシーク通廊の濁流、そして柱廊通り入口付近にあるニンファエウムのワディ・ムーサの激流の規模を見れば、ペトラ遺跡周辺にいた約3000人のビジター数からも、2桁規模の死者が出ていたのは頷ける。

 

砂漠の涸れ川ワディ
 遺跡内には2つの日本人ツアー客47人がいたというが、こちらは全員遭難を免れたのは幸いだった。
 僕も昨年6月、ペトラ遺跡を訪れたが、ペトラ市街から遺跡入口まで、さらに遺跡内のエル・ハズネ、エド・ディル(写真上からエル・ハズネ、エド・ディル)などの著名遺構も含め、草木が1本も生えていない茶色だけの岩砂漠景観に驚いた経験がある。

 

 


 ペトラ市街とペトラ遺跡内にはワディ(涸れ川)があり(写真上からペトラ市街のワディ、シーク入口のワディ、ニンファエウム近くのワディ)、ふだんは1滴の水も流れておらず、中には道路にも利用されている所もある(最下段の写真=エチオピア、ダロール砂漠のワディを行く岩塩搬出のキャラバン。ペトラ遺跡内の一部道路もそうであった)。

 

 

 

 

 

切り立った断崖の間の狭い通廊シーク
 また著名なシーク通廊(写真)は、太古に自然が気の遠くなるほどの時間をかけて開削した大規模な峡谷の底であり、上流で局地的な豪雨があった場合、保水する森がないだけに泥流だけがワディやシークに流れ込む。

 

 

 ヨルダン当局によると、1963年以来の水害だそうだが、この時もシークを歩いていたフランス人観光客23人が犠牲になっている。今回の洪水でも、少しでも高くなった壁面に必死で身を避ける観光客たちが見られた。
 砂漠景観を突然襲う大洪水の危険性は、僕も訪問した時に懸念し、過去の日記にも述べておいたが、砂漠観光のリスクを改めて痛感させられた。

 

ワディにはキャンプを張らない知恵
 昔からアフリカや中東の荒野を歩いた探検家は、ワディには決してキャンプを張らなかった。砂漠で人類祖先の化石を探す現代の古人類学調査者たちも同じである。両岸の、微妙な盛り上がりのバンク上にテントを張る。
 荒野の鉄砲水の悲劇は、実際に古人類をも襲った。そんなことは長い人類史ではありふれていただろうが、珍しく化石で発見された例がある。
 エチオピア東部のハダールで最初に本格的に古人類探査を始めたアメリカのドナルド・ジョハンソンは、実に運の強いことに調査開始2年目に当時としては最古の(318万年前)、そして古人類学史上最初の完全に近いメスのヒト族(後にアウストラロピテクス・アファレンシスと命名)骨格「ルーシー」を発見した。

 

320万年前のアウストラロピテクス・アファレンシス13個体
 ジョハンソンの運の強さは、翌年も続き、前年にルーシーの発見された近くで、200片以上の破片から成る同種のヒト族複数個体の骨が調査チームの若手に発見された。
 重複部分の骨も多数あったから、後に13個体分の骨から成ることが分かった。ほぼ同時代のものと考えられることから、古人類学界では比喩的に「最初の家族」と呼ばれ、発見地は「333遺跡」と命名された。遭難した年代は、カリウム/アルゴン法で320万年前頃であった(3.18~3.21百万年前 )。
 320万年以上前のヒト族がまとまって見つかる僥倖はほとんどあり得ないので、この13個体は、荒野を襲った鉄砲水に飲まれ、絶命した犠牲者と考えられている。
 脳容量450㏄程度の現生チンパンジーに毛が生えた程度の脳で、気象予測などできたはずはない。

 

ワディが招く動物たち
 おそらく晴れていた日中、採食活動中だったのだろう(夜間だったら彼らは樹上で寝ていたはずだ)。
 おそらく数十キロ先に降ったスコールが、数時間後にワディにいた集団を一瞬のうちに襲ったのだ(河床が湿っているワディには植物が生えていたに違いなく、かれらはその実や植物に付いた昆虫を食べていたのだろう)。なぎ倒されるように濁流に飲み込まれた犠牲者の遺体は、やがて運ばれてきた土砂でゆっくり埋められた。そして、20世紀後半まで残ったのだ。
 ペトラ遺跡内でもワディにだけキョウチクトウの木が生え、赤い花をつけていた。水は涸れているが、河床下に湿り気があるからだ。だからアフリカでも、ここにはゾウなどの大型動物が集まる。しかし何十年か何百年に1度、大水害が起こる所でもあるのだ。

 

昨年の今日の日記:「反日なのに韓国民は日本が大好き? 訪日韓国人観光客が激増中、なのに日本人は韓国に行かない」