人類史の中で最悪の疫病の1つは、16世紀のスペイン人によるアステカ帝国の征服後に発生した悪疫であろう。14世紀にヨーロッパの都市と農村をゴーストタウンにしたとされるペストは、当時のヨーロッパの人口の半数前後に当た2000万~3000万人を死に至らせたとされるが、スペイン征服後のメキシコ高原を襲った悪疫もそれに勝るとも劣らない災厄をもたらした。
 『ネイチャー』2月23日号の記事で、スペイン人征服者が訪れた直後の先住民の遺体の遺伝子を分析した結果によると、それはパラチフスC菌というサルモネラ属細菌の感染症のパンデミックであったらしいことが分かった。

 

2500万人のメキシコ高原先住民人口は1世紀でたった100万人に減少
 メキシコ高原先住民社会をほぼ壊滅させた疾病は、天然痘とも麻疹とも想定されたが、これまではっきりとはしなかった。
 それがこのほど500年前の遺体から細菌のDNAが採取され、この疫病に関する初の直接的な証拠が得られた。
 スペイン人征服者エルナン・コルテスがメキシコにやって来た1519年時点で(イラスト=19世紀に描かれたスペイン人によるアステカ征服;写真=古代アステカ帝国の首都ティノチテトランの想像図と中心街のピラミッド神殿群の復元模型。メキシコ国立人類学博物館で)、アステカなどのメキシコ先住民人口は2500万人ほどと推計されているが、アステカ帝国を滅ぼした1世紀後、先住民人口は実に100万人ほどに激減した。

 

 

 こうした事例は、文明社会と初めてコンタクトした未開社会ではよく起こることで、文明人が持ち込んだ疾病に先住民が免疫を持たないことによる。だが、それにしても当初の2500万人が100万人に縮減とは、ほとんど社会の崩壊に近い。

 

都市も町もゴーストタウンに
 疾病の大流行の最大のものは、アステカの言語であるナワトル語で「疫病」を意味する「ココリツトゥリ」として記憶されているが、そのココリツトゥリの2つは1545年と1576年に起こった。それによりメキシコ高原で約700万人、約1800万人が死んだという。
 「都市でも大きな町でも、早朝から日没に至るまで大きな溝が掘り続けられ、司祭も死体を運んできて溝に投棄する以外、なすことがなかった」――1576年の大流行を目撃したフランシスコ会のおそらくは司祭と思われる歴史家は、そう述べている。

 

「ココリツトゥリ」犠牲者からDNA抽出
 その悪疫が何だったのかを突き止めようと、ドイツ、マックス・プランク人類史学研究所の進化遺伝学者ヨハネス・クラウスは、メキシコ高原南部のオアハカ高地に埋葬されていた29人の歯からDNAを抽出した。5人以外は、1545年~1550年にわたると考えられるココリツトゥリの犠牲者だった。
 この古代の細菌DNAを、2700点の現代の細菌ゲノムのデータベースと比較したところ、 サルモネラ菌のものと一致した。
 研究チームは、DNA断片からパラスチスC菌と呼ばれるサルモネラ・エンテリカ系統の2つのゲノムの配列を復元した。現代でも途上国で、この菌はチフスに似た腸炎熱を起こし、放置すると、致死率は10~15%に達する。

 

紀元1200年のノルウェーの若い女性にパラチフスC菌感染の証拠
 このパラチフスC菌は、どのようにしてメキシコに到達したのかは謎だ。
 だがその起源を特定する別の1つの研究が、イギリスのワーウィック大学の微生物学者マーク・アクトマン氏らのチームの集めたゲノム配列である。
 アクトマン氏らは、ノルウェー中部のトロンハイムのある中世墓地に埋葬されていた1200年頃の若い女性の遺体から抽出したゲノムから、今では珍しいパラチフスC菌の最古の証拠をつかんだ。
 この研究によれば、当時のヨーロッパでこの菌による疾病が流行していたことになる。
 しかしその菌がなぜ、どのようにしてメキシコに運ばれたのか?
 強毒性の病原菌であれば、感染者は死んでいるはずなので、スペインからの航海で到達できるはずはない。

 

弱毒化したパラチフスC菌も抵抗性を持たない先住民には致命的に
 1つの仮説としては、パラチフスC菌に感染しても、300年後のコルテスの時代にはもうそれほど恐ろしいものではなくなっていて、一見、健康な不顕性の少数のスペイン人感染者がメキシコに渡り、そこで知らずに先住民に感染させたというものだ。
 ところがそれに抵抗性を持たないメキシコ先住民の間で、その菌は牙をむいた。高致死率の腸炎熱の犠牲者が、爆発的に広がったと考えられる。
 スペインの征服者は、アステカ帝国を銃と馬で滅ぼしたが、新大陸に知らずに運んだパラチフスC菌は先住民社会そのものを崩壊させた。まさに不幸なコンタクトであった。

 

100万人から人口回復させた有性生殖
 救い、そして驚きは、それでも先住民は絶滅を免れ、再び人口を回復させたことだ。
 生き残った100万人は、パラチフスC菌に抵抗力があり、その遺伝子が後生に伝えられ、また病原菌も宿主と共生への道を歩んだのだ。
 それは、有性生殖を営む生物の強みである。有性生殖によって遺伝子の多様性が生まれ、未知の病原体へも抵抗力を持つ個体を作り出すのだ(09年9月11日付日記:「なぜ性はあるのか――有性生殖の意義②:ジャガイモ飢饉、アイルランド、風と共に去りぬ、ケネディ家」、及び09年9月10日「なぜ性はあるのか――有性生殖の意義①:オーストラリア、ラビット、ウイルス、無性生殖」を参照)。

 

昨年の今日の日記:「『Brexit』の表すイギリスEU離脱論をめぐる大いなるリスク;離脱となれば日本は円高の再燃か」