kawanobu日記/我々はなぜ5本の指を持つのか――ソウルで多用した指「言語」から考える:イクチオステガ、アカントステガ、ウマ 画像1

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 小さな子は簡単な計算をする時、よく指を使う。成人の我々でも、言葉の不自由な外国に行って数字を示す時に、よく指を使う。私もソウルで、博物館や世界遺産の朝鮮王朝時代の王宮に入ったり、レストランに入る時、英語を使いつつ、指を立てて入場者数を明示したり、金額を確認したりした。

両手で10本の指を持ったので十進法が発展か
 そうした時、5本の指を持つことの有り難さを痛感する。これがウマのように1本指だったら、2以上の数字を指で示せない。さらに親指が他の4本と対向する5本指のおかげで、器用に箸も持てる。子どもがするように、原始人も数を示したり、計算したりするために両手10本指を総動員したはずである。
 ヒトが片手で5本指を備えているのは、このようにまことに便利であり、さらに言えば、両手で10本の指を持っていたことが原因で今日の十進法の数字表記が始まったのだろう(かつてイギリスの通貨は十二進法だったし、古代文明では六十進法なんてのもあったらしい)。
 それは、おそらく後述する進化のただの気まぐれ、偶然であって、原始哺乳類が5本指の足を持ったことに由来する。だからいないと私は確信しているが、もし仮にこの宇宙に知的生命体がいたとして、彼らの持つ指が5本とは限らない限らないだろう。時々、宇宙人は何本の指を持つか、夢想することがある。指を持たないことはありえない。指がなければ、道具を使えないから、いくら知性を進化させても決して文明を発達させることはできないからだ。

単純さは原始的であることを意味しない
 哺乳類は5本指、と言ったが、冒頭で触れたように奇蹄目である現生のウマは1本指である。ただ1本指の脇に、痕跡的に2本の指が残っていて、それを「指」と認めれば3本指だ。だがウマの化石を過去へとさかのぼっていくと、やがて5本指の祖先へと行き着く。
 このようにウマが進化とともに、指の本数を減らしたのは、草原で疾走するのに、指を少なくして残った指を頑丈にした方が有利だったからで、自然淘汰をへて中指だけ残してあとの4本を退化させたのだ。
 進化とともに単純な1本指になったウマが示すように、だから単純なことは原始的であることを決して意味しない。ともすると進化を知らない人たちは、単純な形態の生物を原始的と蔑むが、大間違いである。

運動・感覚・消化各器官を退化させて生殖器官だけ発達させた寄生虫の進化
 例えば、もうあまり体内に持つ人はいなくなっているが、前後間もなくまで多くの日本人を悩ませたカイチュウなどの寄生虫は、宿主に寄生して生活する形態に特殊化した、進化の究極的な姿である。ヒトの腸内に住んで、そこから栄養をかすめ取る生活だから、運動器官、感覚器官、消化器官など、全く不要だ。だから完璧に、それらを退化させてしまっている。
 その寄生虫でも、生命である以上、次の世代を複製することは至上命題だ。それには、運動器官、感覚器官、消化器官を退化させたことは大きなメリットとなった。なぜなら進化はトレードオフであり、限られた資源を節約できれば、その分、別の器官の充実に回せるからだ。寄生虫は、前記の器官を退化させて節約で得た資源を、生殖器官の充実に回せた。そのため人類は、下水道網を発達させ、また下肥に代わって化学肥料を使い、さらに優れた駆虫剤を開発させるまで、生殖器官を特殊的に発達させた寄生虫に長く悩まされたのである。
 だとすれば、寄生虫とは、単純ではあっても、実に進歩した姿ではないか。寄生虫を原始的と言うのは、自分が無学であることをさらすに等しい。
 本日記の読者は、間違ってもそんな愚かなことを口にされないように。

原始両生類は7本指やら8本指
 話が横路に逸れたが、2億4000万年前頃に現れたとされる最初の哺乳類は、どうやら5本指だったらしいが、さらに祖先をたどると、実際はそうでもなかったことが分かってくる。
 哺乳類のうんとさかのぼった起源は、初めて陸上に上がった原始両生類であるが、3億6500万年前頃のデボン紀末に、魚類の肉鰭類の中から最初の両生類が生まれた(したがって最初の四肢を備えた動物となる)。
 その中の一種にイクチオステガという原始両生類がいたが、四肢の先には7本の指があったのだ(写真上)。さらにイクチオステガの同時代者で、より原始的形態を持つ最初の両生類の一種であるアカントステガは8本の指を持っていた(写真下)。
 哺乳類よりずっと古い、初めて陸上に上がり、四肢で歩いた起源的両生類の指の本数がこのようにばらけていたことから見て、その遠い子孫である哺乳類が5本の指を持つにいたったのは、特に理由のあることではなかったと思われる。

5本指とは実は原始的体制
 実際、現生のウマが示すように環境に応じて指が1本にまで減らした進化もあったのだ。ウシなど偶蹄目の場合は、その名のとおり2本である。5本というのは、陸上を歩くのに、特に有利だったわけではないことが、ここから分かる。
 おそらく特段の理由もなく、イクチオステガの7本やアカントステガの8本のような「実験」をへて(未知の両生類の種ではさらに多様な指を持っていたに違いない)、哺乳類の指の数が偶然に5本となったのだろう。5本指は、その点でウマの「進歩」と違って、最も原始的特徴を維持していた体制なのである。
 この偶然性は、冒頭で述べたように文明を備えた後の我々に幸いした。十進法で、どれだけ計算が楽になったことか。

5本指と定まったパンダの「知恵」
 しかしいったん5本指と定まってしまったことは不都合をも生む。進化で(退化で)指を減らせることができても、増やすことは、もうできなくなったのだ。笹を食べるパンダは、その系統的制約のために、やむなく橈側種子骨(とうそくしゅしこつ)を異常に大きくさせて、間に合わるしかなかった(本年4月19日付日記「科博の『大哺乳類』展で見たパンダの『擬親指』と進化の考察:食肉目、特殊化、系統的制約」を参照)。
 霊長類の一員である我々ヒトは、祖型霊長類が、ウマやウシのような特殊化した指を持たなかった、つまり原始的姿を留めてくれたおかげを受けている。ウマのようにいったん1本指に特殊化してしまったら、もう5本指どころか2本に戻すこともできないのだ。
 その大切な5本の指を「指つめ」と称して切り落とす、アホなアウトロー集団がいる。彼らがいかにアホであるか、進化の歴史をふりかえれば皆さんにもよく実感できるのではないか。
 本日は、ソウル日記は休みます。

昨年の今日の日記:「欧米人の姓は「○○さんちの」という形容詞:レーニン、クループスカヤ、ナボコフ、コヴァレフスカヤ」