(1895年5月26日 - 1965年10月11日)

アメリカ合衆国の写真家であり、報道写真家。大恐慌時代の作品や日系アメリカ人強制収容所の暴露写真で知られる。


ダストボウルの時代

1935年4月14日"黒い日曜日"とも呼ばれ、ダストボウルの期間を通じて最悪の"黒い吹雪"20回も発生して広い範囲に災害をもたらし、昼を夜のようにした。目撃者によれば、5フィート(約150cm)前が真っ暗で見えなかったという。


世界恐慌に加えてこの災害の被害を受けたことで、テキサス州、アーカンソー州、オクラホマ州などグレートプレーンズでは多くの土地で農業が崩壊し、農家は離農を余儀なくされた。350万人が移住し、多くは職を探しにカリフォルニア州などの西部へ移住した。







ドロシア・ラングの写真家としての活動はダストボウル災危を知らせる報道をした写真家。1935年から1939にかけて小作人や農家、出稼ぎ労働者の苦境を知らせる活動が多かった。




一躍脚光を浴びた1枚

1936年、カリフォルニアで撮影した“ Migrant Mother” (移民の母)について、後ほど1960年にこう述べた。


「私は飢えて絶望的な母親にまるで磁石のように引き寄せられました。私はカメラを彼女に向けてなんと説明したか覚えていませんが、彼女が私に何の質問もしなかったことは覚えています。5枚の写真を近づきながら撮りました。私は彼女に名前や境遇を尋ねませんでしたが、彼女は自分が32歳だと教えてくれました。また、彼女は周りの畑の凍った野菜と子供たちが捕まえてくる鳥をよりどころに生活していて、食べ物を買うために車のタイヤを今売って来た所だと語ってくれました。すると彼女はテントに子供たちを抱えて座り、私の写真が助けになることを知っているように見えました。それは彼女だけでなく私も助けることになったのです。」



Dorothea Lange (1895-1965)


​ドロシア・ラングの生い立ち


彼女はドイツ系移民の2世として生まれた。1902年にポリオを発症し、治療法が発見されていなかったため、右足の機能が失われて常に足を引きずりながら活動した。彼女は障害こそが自分の個性を形作る重要なものと考えるようになった。





​日系人強制収容所の報道時代

ドロシア・ラングは日系アメリカ人が強制収容所に収容された時に、時の政府からプロパガンダ用の写真を発信するよう依頼された。


しかし、、

米国旗に忠誠を誓う日系子女たち 1942年撮影



しかし、彼女は明らかに政府の施策を批判するスタンスで報道を続けた。

強制収容所内の日系人の祖父と孫 1942年7月2日

マンザナー強制収容所にて撮影



彼女が撮影した日系アメリカ人人子女の写真は、何の犯罪を犯していなくても拘留することが出来ることを知らせることになった。


彼女の約8000枚に上る写真は軍によって没収され、現在アメリカ議会図書館で閲覧できる。


1952年に有名な写真雑誌Apertureの創刊者のひとりとなる。


晩年の20年は健康が優れず、潰瘍やポリオの後遺症にくるしんだ。1965年10月11日に:0歳で他界した。


2番目の夫であるポールと生涯連れ添い、2人の子供と4人の継子、そして数多くの孫やひ孫を得た。



敵に似た顔だちしている。つまり敵だと、和訳付き



まさか自分たちが牛や豚の住む所に住むようになるとは思ってもみなかった。政府は騙して収容した。



いつの時代も政府とメディアによるプロパガンダがメイン潮流となるように工作する。日本人は数多く外国人の救援をし、救援もされて来た歴史がある。自国の歴史から学び、また、他国の過ちからも学びながら行きたいものですね。






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