淡路島洲本市にある「日露友好の像」

この右側が高田屋嘉兵衛



三波春夫が『熱血! 日本偉人伝」にて「日ロの架け橋」となった大商人』と紹介した人物
高田屋嘉兵衛のエピソードを紹介!

北方四島の航路開発
近藤重蔵らによる北方領土調査を経て、幕府は択捉島などに役人を常駐させました。そして享和元年(1801)には、南部・津軽両藩の兵隊100人前後を守備にあたらせました。

その一方で北方領土への開拓は積極的に行われていましたが、中でも大変だったのは国後島や他の島々へと航路を開いていくことでした。

この問題を解決したのが、近藤重蔵に雇われて調査・探検に同行した高田屋嘉兵衛という人物です。

高田屋嘉兵衛は、蝦夷地の開発に貢献した海運業者で、もともと四国・淡路島の出身です。嘉兵衛は、北方領土で潮流や魚場の調査、島内開墾を行って幕府と密接な関わりを持つようになります。

そして、不屈の精神を持って北方四島の航路開発にあたり、見事に仕事をこなしていきました。

この間に幕府は、色丹島に船の避難港を設けたり、野付半島~国後島間の航路開発や、国後島内の道路開発事業を進めました。北方領土での人びとの往来や物資の流通が盛んになってきたのもこの頃です。

28才で当時国内最大級の船を建造した。
淡路島から北前船を函館まで、操縦し、遭難の多い航路を一回の遭難もなく、現代の金額で言えば一回で一億相当の商いをして豪商となった。

函館ゆかりの人物として紹介されている。

箱館を基地として、エトロフ島を開発経営し北方漁業の先駆をなし、造船・海運の業を営み、大いに箱館の繋栄を築いた淡路生まれの高田屋嘉兵衛。

明和6年1月1日、淡路国(現・兵庫県)津名郡五色町都志で、弥吉の長男として生れる。幼少のころから大望をいだき、思いついたことは大胆に行動したという。12歳の時、すでに親戚の家で、商業や漁業に従事、師について学んだことはなかったが、生きた学問を体得していった。

寛政2年、兵庫にいる親類の船頭堺屋喜兵衛を頼って、下関まわりの船乗りになる。2年後、兵庫の西出町に世帯をもって店を開き、下関や長崎にまで、手をのばすようになる。このころ強く刺激されたものは、毎年春秋の2回、瀬戸内海から日本海をまわって、えぞ地の産物を積んでくる北前船の雄姿であった。

寛政7年、27歳になった嘉兵衛は、和泉屋喜兵衛の沖船頭になって、はじめて兵庫から日本海をとおって酒田に出る。この年に、庄内で、千五百石積みの辰悦丸を新造した。翌年、この辰悦丸に、酒・塩・もめん類を積んで酒田におもむき、そこで米を積み込んでえぞ地に向ったが、目指した処は、松前でも江差でもなく、箱館だった。
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