シベリア抑留体験者紹介
三波春夫

1 浪曲上等兵 
2『東京五輪』エピソード 
3 著者『熱血!偉人伝』
4  歴史に造詣が深かった三波春夫


1944年(昭和19年)満州(現中国東北部)に出兵、20年終戦、捕虜としてシベリア(ハバロスク)に抑留される。この間、労働の合いまに浪曲・演劇・歌を創り演じることで多くのことを学ぶ

帰国後、浪曲家として復帰、1952年(昭和27年)12月に結婚、妻の三味線で浪曲2人旅をはじめる。しかし浪曲の世界に疑問を持ちはじめ、《大衆芸術は浪曲だけでない。今、大衆が喜び、待っているのは歌なのだ》と実感し、浪曲の仕事を断り、歌のレッスンを受け、歌に人生を賭ける。



<シベリア抑留を4年間体験した>

 三波春夫は昭和19年に召集され陸軍に入隊、満州に派兵された。終戦後、64万捕虜の1人としてシベリアで4年間過す。抑留中は《浪曲上等兵》といわれ、毎日の労働(レンガ積み、石炭おろし、材木の切り出し等)の苦しさを紛らわすために、浪曲を聞かせてとせがまれ、休日や休憩時間に演芸会をひらき披露した。



ソ連当局はこれに目をつけ《共産主義の思想教育に活かすため、芝居や歌の楽劇団を組織させた》、三波春夫は中心となって脚本、演習、出演もした。




浪曲はソ連将校には受けなかったが、古賀メロディの《青い背広でこころも軽く…》と歌うといい声をしていると賞賛、三波春夫に民主化芸術家の肩書きを与えキャンプ廻りをさせた。



節あり語りあり笑いあり、説教的要素もありで人気をえた。三波春夫は後年《シベリヤで歌の素晴しさを知りました。浪曲は長いが、歌は短くて皆で歌える良さがある》と述懐。この経験が後年の歌手・三波春夫を生む原点となった。



三波春夫の故郷への思いは強く、人生最後のステージは故郷越路町の体育館で平成12年11月12日(日)開催された。すでに癌をわずらい、開催も危ぶまれる中、故郷での2時間に及ぶショウのフィナーレは、三波春夫作詩・宮川泰作曲の《終わりなき我が歌の道》という三波春夫のマイウエイだったという。



三波春夫の東京五輪音頭が大ヒットした理由は!


東京 オリンピックの歌「東京五輪音頭」は三波春夫の持ち歌と思っていましたが、この歌はコロンビア専属の古賀政男の作曲で、レコード会社各社に開放され、三波春夫、橋幸夫、三橋美智也、坂本九、島三郎・畠山みどり各社、大木伸夫・司富子等が競い歌いました。



群を抜いて三波春夫の歌がヒットしたのですが、その理由について、2001年に古賀政男文化振興財団から三波春夫が顕彰された記念イベント(於・けやきホール)において、「歌手は当然のごとく、自分の新曲が出ればその歌を熱心に歌って回るわけだが、当時の三波さんは、自分の新曲はさておき、どんな時も一生懸命『東京五輪音頭』を歌った。



戦争に行き、シベリアで捕虜となっていた三波さんは、彼の言葉を借りれば、『日本は、日本人は、頑張って、こんなに戦後復興を遂げたんですよ、ということを、戦後初めて世界に示すイベントである東京五輪はなんとしても成功してもらいたいと思った』という思いが人一倍強かった。そういう強い気持ちが載った歌だった」という内容の話をしている(wikipedia掲載)



この東京五輪音頭は1曲で250万売れたという大ヒット商品で、今でもこの記録は抜けないのではなかろうか? NHK紅白歌合戦には30回出場、最後のトリをとったのは5回、紅白歌合戦のエンディングは通常「蛍の光」が恒例だが、唯一昭和38年〈1963年〉の紅白歌合戦では三波春夫の「東京五輪音頭」が歌われた。





シベリア抑留時に歌謡曲の時代を予感し、日本の伝統歌謡に興味を持ち、長時間の《歌謡浪曲》分野を切り開き、《元禄名槍譜俵星玄蕃》でヒットし、晩年には《平家物語》-2時間30分の長編歌謡浪曲-の構想に10年を費やした。《世の中を明るくする仕事を》したいという思い、と《お客様は神さまです》のこころ根が国民に愛されたのでしょうか。




〔歴史に造詣が深かった三波春夫〕

日本の歌謡史は三波春夫の生涯のテーマとして研究している。三波春夫の歌には平家物語の琵琶、仏教の声明、民謡、浪曲、講談、演歌などの日本の伝統歌謡が内包している。それゆえに人々の心をとらえる。



三波春夫には《熱血!日本偉人伝》という著書がある。この中に9人の偉人が並ぶ、高田屋嘉兵衛、大石内蔵助、勝海舟、平清盛、二宮尊徳、児玉源太郎、織田信長と豊臣秀吉、聖徳太子、スサノウと日霊女、 これら偉人の多くが三波春夫の歌の素材になり、歌謡浪曲として唄われている。





『熱血!日本偉人伝』

これを読むと通常知らない視点から書かれ面白い。例えば、勝海舟の祖父は新潟県の三波春夫の生家に近い村の出身で盲目だが頭脳明晰で最高位の検校にまで上りつめ、財をなしたが、死ぬ時は全ての借用書を焼きすてた。



《子孫に金を残すのでなく徳を残す》と遺言したという。そのような人物の孫ゆえ、江戸城無血開場をなしとげ、西郷隆盛は江戸を救い、大久保利通は東京遷都をなしとげ150万江戸庶民の失業を救った。これらにみな勝海舟が関わっている、という視点で書かれており面白い。



また平清盛は悪人としての評価が一般的だが、神戸港や音戸の瀬戸を開き、『日本は貿易立国でなければと日宋貿易をはじめた世界に目を向けた大人物』ととらえている。従来の平家物語の悪人説をくつがえした『新しい平家物語』をかき、長編歌謡浪曲にしたてている。


歌手は作詩家の詩を歌うのが普通ですが、三波春夫は自分でその人を研究し、惚れこみ唄っている。その底に流れる思いが強いから、聞く人々の心を打ち、国民的歌手にまで到達したように思う。



『大利根無情』〈1959年〉『東京五輪音頭』〈1963年〉『世界の国からこんにちは』〈1967年〉長編歌謡浪曲『元禄名槍譜俵星玄番』〈1964年〉等の大ヒットを生み、特に昭和の大イベント《東京オリンピック、大阪万博》のテーマ曲を唄い、多くの国民に唄われ愛され国民的歌手の道を歩み、1964年(昭和39年)《日本レコード大賞特別賞受賞》、1976年(昭和51年)リサイタル「終わりなきわが歌の道」で、1982年(昭和57年)には歌謡生活25周年リサイタル「放浪芸の天地」でいづれも文化庁芸術祭優秀賞を受賞、1994年(平成6年)「平家物語」で日本レコード大賞企画賞を受賞する。


1985年(昭和60年)出身の越路町名誉町民の称号を授与される1986年〈昭和61年〉紫綬褒章授賞、NHK紅白歌合戦出場(40回記念で平成元年)には30回の出場を果たす。


歌にパワーが込められた歌唱!





三波春夫オフィシャルサイト

三波春夫の人生から引用させていただいております。