香月泰男氏が復員の際に乗った恵山丸の模型


父がシベリア抑留から

舞鶴港に復員した船は

軍歴証明には

忠山丸と記載されていた。

しかし、

その名前は

復員船一覧には

見当たらなかった。


舞鶴引き揚げ記念館に

問い合わせると

矢張り

その名前の

引き揚げ船はない

とのことだった。


ただし、日程から

割り出してみると

その日

昭和23年8月28日に

忠山丸ではなく

恵山丸が入港していた。

(乗船者は1008名)


当時手書きで書かれた

文字が判然とせずに

誤読となったと思われる

とのことだった。


と読んだ結果に違いない

と納得した。


その船の画像も

なかなか見つからず

やっと

香月泰男氏

の美術館に「模型」が

展示されている

その写真が上の写真


元々アメリカの商船

として借りたのを

返還したために

日本にはない為に

模型展示となったらしい。


これで一つ

父の記録を修正出来る。


下の手記は

恵山丸号は

10度近くナホトカや大連と

舞鶴や佐世保などを

往復したが

その中の1便の例

として記載して起きます。


如何に

悲惨でみじめな

帰還だったかが忍ばれます。




神奈川県 佐藤氏


大連埠頭に集合し、待合室で荷物に寄り掛かって一夜を明かした。翌朝、水平線に黒い点が一つ見え、だんだんと船の形がはっきりしてきた。待ちに待った船が着岸した瞬間には、歓声があがった。 恵山丸の船尾には、一年半ぶりに見る日の丸が揚がっていた。


恵山丸は昭和二十二年一月三十一日に大連港を出港した。貨物船の船倉に何層か床が張られ、隙間のない雑魚寝だった。寝返りをうつ度に、 腹巻きに納めた父の遺骨が砕けた。船員たちは親切だった。 いま内地で流行している歌だといって 「リンゴの歌」を歌ってくれた。 せっかくここまで頑張ったのに船内で亡くなった人もいた。水葬の合図にボーボーと汽笛が鳴った。

また、子供が生まれて船長が名付け親となって、船名にちなんで恵子と命名された子もいた。






平成30年7月14日(土)~10月14日

平和祈念展示資料館交流展

 「私のシベリヤ、それぞれのシベリア」


香月泰男美術館

山口県長門市の香月泰男美術館にて、平和祈念展示資料館交流展「私のシベリヤ、それぞれのシベリア」を開催しました。平和祈念展示資料館交流展「私のシベリヤ、それぞれのシベリア」では、香月泰男美術館所蔵資料54点と、平和祈念展示資料館所蔵資料52点、計106点を紹介しました。会場は4章で構成され、香月泰男の作品やゆかりの品と、資料館の抑留に関する資料が並びました。


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