武蔵七党 私市党 | 河原姓のルーツ探し

河原姓のルーツ探し

自分の姓のルーツをたどる小さな旅です。
少しずつ新しい発見を加えています。
自分のルーツを知ることは、自分の受け継いだDNAが何をしこれから何をしようとしているのかを知ること。
自分探しの旅はまだまだ続きます(要約版は上のプロフィールをクリック!)。

私市と書いてなんと読むかご存知だろうか?「きさいち」と読む。北河内にある地名だ。大阪には読みに困る地名が多い。放出(はなてん)、喜連瓜破(きれうりわり)、枚方(ひらかた)、十三(じゅうそう)など、挙げればキリが無い。

関東の河原氏は、武蔵七党の私市党に属していた。日本の苗字七千傑の私市氏についての説明にこうある(以下、引用)。

開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔で、日下部氏より別れる。
 河内国交野郡私市村から地名を負つて、武蔵国埼玉郡私市村に移住したものと思われる。
 私市氏一族は武蔵七党の私市党とも呼ばれ、埼玉郡北部を中心に大里郡に分布する。

日本の苗字七千傑の私市氏に示された系図にあるように、河原氏はこの私市氏の一族だ。説明では、「開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔で、日下部氏より別れる。」とある。系図では初代私市黒山から七代後の私市成方から河原姓を名乗っている。系図を見ると本家筋なのにだ。また、分家筋に引き継がれた私市氏が三代後に絶えているのに、河原姓は代々引き継がれている。

私はこう思う。私市姓は、出身地を表すために対外的に使っていたが、実は一族の間で認識されていた本姓は「河原」ではなかったのではと。また、開化天皇にルーツを求めたのも、当時の関東では知る人もいなかった魏の曹操の息子、曹植(陳思王植)を始祖などと口にすることなどできなかったのではないかと思うのだ(明代に書かれた三国志演義がもてはやされたのは江戸時代)。

一方、儀一の城館旅というウェブでは、次のような解説がある。

河原氏は武蔵七党私市党の出身とされている。私市則房の子成方は北埼玉郡や大里郡を転々とし、ついに北埼玉郡河原村に住むことになり河原権守を称したのが河原氏の始まりである。成方の子成澄は南埼玉郡太田に住むことになったので太田氏を名乗り、河原氏を継いだのはその弟である河原五郎成直であった。異説として河原氏の末裔である今村氏に伝わる系図では源氏の嫡流、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の血を引くという。