道常無爲、而無不爲。

侯王若能守之、萬物將自化。

化而欲作、吾將鎭之以無名之樸。

無名之樸、夫亦將無欲。

不欲以靜、天下將自定。

 

 

道は常に無為にして、而(しか)も為さざるは無し

侯王(こうおう)若(も)し能(よ)くこれを守らば、

万物は将(まさ)に自ら化せんとす。

化して作(おこ)らんと欲すれば、

われ将にこれを鎮むるに無名の樸(ぼく)を以(も)ってせんとす。

無名の樸は、それまた将に無欲ならんとす。

欲あらずして以って静かなれば、

天下将に自ら定まらんとす。

 

 

≪解釈≫

道は無為なるままに、
世の物事は成し遂げられる。
諸国の王や諸侯が道を護るようになれば、

世の中は調和ある姿に改まるだろう。
世が改まり、事が着手されるときは、

それは単純素朴な「無名者(道」によって抑制(してな)されよう。
単純素朴な「無名者」は、
他と争う欲望を(人から)剥ぎ取ってしまう。
欲望が空しくなると、静穏が行き渡る。
そして世の中には調和のある平和が満ち満ちる。

 

 

≪後述≫

本章で老子道徳経の上篇が終了となります。

上篇は”道”というキーワードから始まり、

下篇は”徳”というキーワードから始まることから、

本書は「道徳経」と呼ばれるようになったのであるが、

ここで老子の説く「道」とは一体何なのか?!

という事を少し纏めたいと思います。

 

第一章の冒頭において、

”道”とは、

言葉で言い表せるようなものではない。こと、

頭で理解したり言葉で表現したり出来ないもの。

とされている。

 

老子を読むに際して大切なこととは、

言葉の意味を理解することではなく、

老子さんがおっしゃっている言葉に

単純に共感することであろうと思う。

 

自分自身であろうとも

環境や年代によって

その受け取り方は千差万別、様々である。

 

一番大切なことは、

道常無為、而無不為

(道は常に何事もなさないが、それでいて全てを成し遂げている)

 

「気付いたら人々の生活が穏やかになっていた」
「自然と穏やかな暮らしに導かれていた」​​​​​​​

 

等々の気付きではないだろうか!?

 

それとともに

「無為自然」なのではないだろうか。

 

自分にフィルターを科すことなく、

あなたのその気付きが無ければ、

真に相通じることはないだろう。

と思う次第です。

 

 

今日という日が

あなたにとって最善、最良の日となりますように!

                        

                             祈

苫米地英人集大成メソッドオールライフコーチングプログラム』

 

 

≪老子とは?!≫

老子とは春秋時代(B.C.770~B.C.403)の思想家で、道教の始祖です。

「老子」と書いた場合、

人物としての老子を意味することもあれば、

その学説を記した書である『老子』を意味することもあります。

 

人物としての老子に関しては、

確かな記録に乏しく、実在を疑う人もいます。

また、書物としての『老子』は老子単独で書いたものではなく、

複数の著者がいるのではな

いかという説もあります。

 

道家(どうか)の思想の原点は、

いうまでもなく老子が著したといわれる『老子道徳経』(一般には『老子』といわれている)である。

それでは、

老子とはどんな人物であり、老子道徳経とはどんなものなのだろうか。

老子は、

司馬遷の『史記』によると

「楚(そ)の苦県(こけん)の厲郷(らいきょう)、曲仁里(きょくじんり)の人であり、

姓は李(り)氏、名は耳(じ)、字(あざな)は伯陽(はくよう)、おくりなして聃(たん)という」

となっています。

また『史記』には、

老子に教えを請うた孔子が、
「鳥は飛ぶもの、魚は泳ぐもの、獣は走るものくらいは私も知っている。

走るものは網でとらえ、泳ぐものは糸でつり、飛ぶものは矢で射ることも知っている。

であるが、

風雲に乗じて天に昇るといわれる竜だけは、私もまだ見たことはない。

今日、会見した老子はまさしく竜のような人物だ」といったと記されている。

だから、

もし老子が実在する人物であったなら、孔子と同じ時代、

紀元前五世紀頃の人だということが云える。

実在する人物であったならというのは、

老子は生没年代も明確ではなく、

また、老子道徳経の内容や文体を考察するならば、

一人の人物の頭脳から生まれたものとは考えにくく、

その頃の道家の思想を集大成したものと考えられるからである。

しかし、老子が実在の人物でないとしても、

それによって老子の思想的価値が下がるわけではない。

逆に、儒教が孔子、仏教が釈迦、キリスト教がイエスの主観から生まれたのに対し、

老子道徳経は、

多くの頭脳の集積から生まれただけに、より普遍性を持ち、

真理をついた思想ということができる。

この老子の思想の中核を成すものが「無為自然」の思想である。

これは

「宇宙の現象には、人の生死も含めて、必然の法則が貫徹していて、

小さな人為や私意は入り込む余地はないのだ」という考え方が基本になっている。

つまり、人間などというものは、

宇宙から見ればゴミのような小さい存在であり、

人生は人の力ではどうにもならない自然の一コマに過ぎない。

しかし、人間はそういうことも分からずに、

さまざまな我執(がしゅう)に振り回されてあくせくしている。

人は生まれる前は“無”、そして死んでしまえばまた“無”に帰るわけで、

自分のものなど何もない。

このことに気づき、くだらない見栄や欲を捨てれば、

人生はもっともっと楽しくなる。

これこそが人間として最高の生き方であるという考え方だ。

これまで日本では、

この老子の思想というものはあまり重要視されて来ませんでした。

孔子の儒教に比べて冷遇されてきたとでもいうべきだろうか。

それは、時の権力者にとって、すべてにおいて儒教のほうが都合がよかったからである。

封建時代という階級社会では、

修身や治国を「……してはいけない」調で説く儒教の教えは歓迎されても、

「我執を放(ほ)かして楽しく生きましょう」という思想が

受け入れられるはずがなかったのである。

しかし、現在道家の思想が静かなブームを呼んでいる。

それはなぜだろうか。

それは、

今日あふれるほどの物質文明の恩恵をこうむるあまり、

精神的な拠り所を失っている人々が非常に多いからである。

人生とは何なのか、幸福とは何なのかを考えた時、

はたして明確な答を示してくれるものがあるだろうか。

富、名誉、そんなものは死んでしまえば何にもならない。

その答えはただ一つ。

「健康で楽しく生きること」ではないのか。

それが人間としての生き方の原点ではないのか。

それを前面に打ち出してうたってきたのが道家であり、老子なのだ。

まさしく老子は生きているのである。

今日ほど老子の思想が注目されている時代はない。
なお、老子道徳経の“道徳”とは、

宇宙には人為の及ばない法則(道)があり、

万物はその道から本性(徳)が与えられる。

というところから出たものである。

モラルの意味ではない。