素直な心がない場合には、

とかく物事にとらわれがちとなり、

ついつい無理をしてしまうことになりやすくなる

 

 

≪後述≫

“無理をしてはいけない”ということは、

お互いの日常生活において

しばしばくり返しいわれていることではないかと思います。

無理をしないということは、

辞書によれば、道理に反することをしない、

理由がたたないことをしない、行ないにくいことをしいてしない、

というようなことですが、

これはいってみればごくあたりまえのことのようにも考えられます。

 

しかし、このあたりまえのことが、

実際にはなかなか守られにくいようです。

たとえば、お互いの日々の生活、

活動の上においても信号が赤に変わりかけているのに

無理して車を進ませるとか、能力以上の仕事を無理してかかえ込むとか、

あるいは他の人に対して物事を無理じいする

とかいったような姿は、しばしばくり返されているのではないでしょうか。

 

そして、

そういった無理によって、いったいどのような姿が生じているのかというと、

それはだいたいにおいて好ましからざる姿に結びつく場合が多い

ように思われます。

つまり、たとえば信号無視の無理をすれば事故につながるとか、

能力以上の無理をすれば失敗してしまうとか、

あるいは無理じいをして人の反発を買い、

争いになってしまうとかいうように、

往々にしてマイナスを生じかねないと思うのです。

 

だからそういった無理はしない方がよい、

ということは、これはだれでも一応は知っているであろうと思います。

ところが、実際はなかなかそういう姿がなくなりません。

これはいったいどうしてでしょうか。なぜ、そういう無理がなされるのでしょうか。

 

これは、

もちろん、一言ではなかなかいえないものがいろいろあるのだと思います。

たとえば、その時の必要に迫られて、

結果のマイナスなど考えてみる余裕がなかったため、

無理を承知で無理をした、というような場合もあるでしょう。

 

また、自分自身の意欲とか欲望にとらわれてしまい、

たとえばかけごとで取り返しのつかない大損をするとか、

遊びに夢中になって徹夜の不摂生をつづけるといったように、

無理は承知だけれども、ついつい無理をする、

また人に無理じいをする、というような場合もあるかもしれません。

こういうように、いろいろな場合が考えられると思います。

 

けれども、

そういった場合を通じていえることは、

結局のところ、素直な心がないということ、

つまり素直な心が働いていないから無理というものが生じてくる、

ということではないでしょうか。

つまり、

なにかの必要に迫られて心に余裕がなくなるというのも、

これはいわば一つのことにとらわれた姿であって、

素直な心のない姿であるともいえるでしょうし、

また意欲や欲望にとらわれるという姿は、

まさに素直な心のない姿そのものであるともいえるでしょう。

 

すなわち、

お互いが無理を承知で無理をするというような姿というものは、

お互い素直な心をもたずに、

いろいろなことにとらわれる

というようなところから生じてくる場合が多いと思うのです。

 

 

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ありがとうございます。