素直な心がない場合には、

目先の利害にとらわれて物事を判断した行動をとりやすく、

将来の発展を損なう場合が少なくない

 

 

≪後述≫

素直な心というものがない場合の弊害のひとつに、

目先の小さな利害にとらわれる、

ということがあるのではないかと思います。

すなわち、

素直な心が働いていなければ、

ついつい自分の目先の利害得失に心奪われ、

それにとらわれて物事を考え、判断を下し、

行動をとってゆくことになりかねないということです。

 

もちろん、

お互いが利害得失を考えるというのは、

これは人間としていわば当然の姿であって、

それを考えつつ物事を判断し、行なうということは、

極めて当り前のことだと思います。

しかし、だからといって、

常に自分の利害得失だけを考え、

それのみに基づいて物を判断するということになると、

これはいささか目先の利害にとらわれた姿であり、

そこからは物事はスムーズに運ばないのではないかと思うのです。

 

自分の利害にとらわれるということは、

いってみれば、

その時々の自分の利益になることのみを追い求め、

肯定し、損害になることはすべていみ嫌い、遠ざけ、否定する、

というような姿であるともいえるでしょう。

しかし、

そういう、自分のことしか考えない姿というものは、

往々にして他の人びとの利害を無視したり、

軽視したりすることにも結びつきかねません。

したがって、

とかく人々の反発、非難を受けることにもなるでしょう。

そこには争いが生じ、

自他ともの損失を生むことにもなりかねないと思います。

 

お互い人間は相寄って共同生活を営んでいるわけですから、

互いに自分一人だけの目先の利害を考えていたのでは、

共同生活をスムーズに運営していくことは難しいでしょう。

やはり、

自分の利益は当然考えるけれども、

それと同時に他の人の利益についても考える。

また目先のことことだけでなく将来にわたって益になることを考える。

 

そのようにしてこそ、

自他ともの利益というものが調和した姿において満たされ、

ともどもに和やかに日々を送っていくことも出来るようになる訳です。

しかしながら、

お互いが素直な心をもっていない場合には、

ついつい自分の目先の利害にとらわれて物を考え、

事を判断するということになりがちのようです。

 

たとえば、

卑近なところでは、

先般ある大都市でゴミ処理場の建設をめぐって

トラブルが起こりましたが、

これなどもその一例といえましょう。

つまりゴミ処理場の必要性は認めるが、

しかし自分たちの住む家の近くには造って欲しくない、

どこか他の地区のもっと遠くへ建てて欲しい、

などという住民の声が強くて、

責任者としても処理場の建設用地が決定できず、

事がなかなか運ばなかったということです。

 

そしてそのために九年ちかくの長い間にわたって、

ああでもないこうでもないということでトラブルが続き、

住民たち自身もいろいろと頭をつかったり、悩んだり、

互いに争ったりしたということです。

お互いが自分の目先の利害にとらわれて物事を判断し、

行動するところからは、

結局、自分自身も社会全体としても大きなマイナスを招くことになると思われます。

 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。