子謂子貢曰、女與回也孰愈。

對曰、賜也何敢望回。

回也聞一以知十。
賜也聞一以知二。

子曰、弗如也。

吾與女弗如也。

 

子、子貢に謂いて曰(のたま)わく、

汝(なんじ)と回(かい)と孰(いず)れか愈(まさ)れる。

対(こた)えて曰く、賜(し)は何を敢えて回を望まん。

回は一を聞いて以て十を知る。

賜は一を聞いて以て二を知るのみ。

子曰く、如かざるなり。

吾も汝とともに如かざるなり。

 

 

≪解説≫

孔子が子貢に対して、

「お前と顔回とどちらが優れていると思うか?」と尋ねた。

子貢は、

「どうして私ごときが回(顔回)と肩を並べることができましょうか。

回(顔回)は、一を聞いて十を悟りますが、

賜(私)は一を聞いてせいぜい二を悟る程度ですから」と答えた。

孔子は、

「まことにそうだなあ。

お前だけではない、

実は私も顔回には及ばんのだよ」とおっしゃった。

 

子貢(由)も顔回(回)も孔子の誇る高弟で、

共に孔門十哲の一人であり、

世に知られた英才であったが、

孔子は子貢に問うた。

「お前と顔回とどちらが優れているだろうか?」

子貢は、

「私などは、

顔回と肩を並べるなどと言うことは、思いも及ばないことです。

一を聞いて十を知る顔回、

私は一をきいてやっと二を知るに過ぎません。」と答えた。

それを聞いた孔子は、

「お前が顔回に及ばないように、

 私もあの優れた顔回には遠く及ばないのだよ」

 と謙虚に返したのである。

 

子貢は、

全体を把握することを「一を聞いて十を知る」と云いますが、

今でも使われているこの言葉は、

子貢のこの言葉が現在に伝わって使われている言葉だったんです。

※孔子の名が広まったのは、

 各国諸侯とも交際し、

 交易をしていた子貢が弟子にいたからだ、

 と貨殖列伝に記載されている。

 生年紀元前520年~没年紀元前446年

 

顔回(回)とは、

顔回(回)は、魯の人。

孔門十哲の一人で、随一の秀才。

孔子にその将来を嘱望されたが、

孔子に先立って没した。

顔回 Wikipediaはコチラから

 

顏回は名誉栄達を求めず、

ひたすら孔子の教えを理解し実践することを求めた。

その暮らしぶりは極めて質素であったという。

『論語』には顔回(回)への賛辞がいくつか見られる。

たとえば、孔子が「顔回ほど学を好む者を聞いたことがない」

(雍也第六、先進第十一)や同門の秀才子貢が、

「私は一を聞いて二を知る者、

顔回は一を聞きて十を知る者」(公冶長第五)

と述べたことが記載されている。

顔回は孔子から後継者として見なされていた。

それだけに若死にした際、

孔子の落胆は激しく、

孔子は「ああ、天われをほろぼせり」と憂い嘆いた。

生年紀元前521年~没年紀元前481年(没年を490年とする資料もある)


≪文末≫

2500年という時間を経てもなお、

孔子に関する様々な書籍が読まれ続けているのには、
それだけの理由があると思います。

 

その孔子の言葉を、

その時々の自分の身に置き換えて考えてみるからこそ、

その時点での新しい意義が発見がある。

それはつまり、

自分の為に活かすからこそ

役に立つ「活学」となるのであります。

 

その思想の根底には、

”礼”と”仁”を重んじる孔子の考えは発展し、

最後に”中庸”を加えてさらに発展し、
ある意味不変であり、

どれだけ科学技術が進歩した

先進社会になったとしても、

円滑な人間関係を築く上で

脈々と受け継がれている思想だと思うのです。

 

論語を読む時は、

孔子が対座していて、

その発した言葉の状況や雰囲気を感じ取り、

その言葉の趣旨や意図、目的などを

拝察しながら、楽しみながら触れるようにしています。


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