“これはできない”

“これはムリだ”

と自分で勝手に思い込んではいないか。

 

はじめから決め込んでしまっては、

できるものでもできなくなってしまう。

 

あらゆる思い込み、

とらわれから離れ、

素直な心で見つめ直してみよう。

 

白紙の状態から再出発してみれば、

思いがけない道がひらけてくることも少なくない。

 
 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。

 

今日と云う日が

あなたにとって最良の日となりますように

 

                       祈

 

苫米地英人集大成メソッド『オールライフコーチングプログラム』

 

成功した事業は

すべて投資することから始まっている。

 

自分の仕事についても、

知恵でもよい、

時間でもよい、

まず何らかの投資をしよう。

 

それがやがて

みずからの力を伸ばし、

仕事の成果をも高めることになる。

 
 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。

 

今日と云う日が

あなたにとって最良の日となりますように

 

                       祈

 

苫米地英人集大成メソッド『オールライフコーチングプログラム』

 

言葉は力を持っている。

 

何気ない一言が

人を傷つけ不快にもすれば、

喜びを与え、励ましもする。

 

「ありがとう」や「すみません」、

人の心と心をあたたかく結び、

人にすがすがしさを与えるいい言葉。

 

そんな一言を何気なく口にできるゆたかな心、

あたたかい人柄を日ごろから養いたい。

 
 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。

 

今日と云う日が

あなたにとって最良の日となりますように

 

                       祈

 

苫米地英人集大成メソッド『オールライフコーチングプログラム』

 

いかに的確な判断も、

勇気と実行力がなければ

十分には生かされない。

 

勇気あふれる果敢な実行力こそが、

たとえ十分ではない判断をも、

百パーセント確実な成果に

結びつけることができるのである。

 
 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。

 

今日と云う日が

あなたにとって最良の日となりますように

 

                       祈

 

苫米地英人集大成メソッド『オールライフコーチングプログラム』

 

バラはバラ、桜は桜。

どの花にもそれぞれのよさがあり、
美しさがある。

 

私たちにも、
それぞれに異なる個性、特質があり、
どちらがよくてどちらが悪いということはない。

 

その自分ならではの個性の花を、
それぞれにしっかりと咲かせよう。


そうした努力を重ねる中から、

みずからの確かな幸せも生まれてくる。

 
 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。

 

今日と云う日が

あなたにとって最良の日となりますように

 

                       祈

 

苫米地英人集大成メソッド『オールライフコーチングプログラム』

 

知識や才能に少々乏しい点があっても、

強い熱意があれば、

そこから次つぎとものを生みだすことができる。

 

たとえ自分自身で生めなくても、

一所懸命な姿を見て多くの人が援助してくれる。

 

あたかも磁石が周囲の鉄粉を引きつけるように、

熱意は周囲の人を引きつけ、

周囲の情勢をも大きく変えていくのである。

 
 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。

 

今日と云う日が

あなたにとって最良の日となりますように

 

                       祈

 

苫米地英人集大成メソッド『オールライフコーチングプログラム』

 

人の協力が得られないとき、

私たちはともするとその原因を他に求め、

愚痴をこぼしたり他人を非難したりしがちである。

 

しかし強い熱意で動かない人はいない。

 

問題にすべきは他の人ではなく、

自分の熱意であろう。

 

どれほどの熱意をもって仕事にあたり、

人に接しているだろうか。

 
 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。

 

今日と云う日が

あなたにとって最良の日となりますように

 

                       祈

 

苫米地英人集大成メソッド『オールライフコーチングプログラム』

 

自然はもちろん、

人の動き、

社会の動き、

何一つとしてきのうと同じではない。

 

すべてが刻々と動いていて日に新たである。

 

けれども、

みずからの心がマンネリに堕したとき

新しい発見は止まる。

 

心して注意深く日日に臨もう。

 

どのように平凡な毎日でも、

必ず新しい発見、

貴重な体験が得られるのだから……。

 

追記

堕(だ)した:物事がよくない状態に陥る。

 
 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。

 

今日と云う日が

あなたにとって最良の日となりますように

 

                       祈

 

苫米地英人集大成メソッド『オールライフコーチングプログラム』

 

和大怨必有餘怨。

安可以爲善。

是以聖人執左契、而不責於人。

有徳司契、無徳司徹。

天道無親、常與善人。

 

 

大怨(たいえん)を和すれば必ず余怨(よえん)あり。

安(いずく)んぞ以(も)って善と為(な)すべけんや。

ここを以って聖人は左契(さけい)を執(と)りて、而(しか)も人を責めず。

徳有るものは契(けい)を司(つかさど)り、徳無きものは徹(てつ)を司る。

天道は親(しん)無し、常に善人に与(くみ)す。

 

 

≪解釈≫

深刻な怨みから来る争いを

無理やり和解させたとしても、

必ず火種が燻り続けているものだ。

どうしてそれが善い事だと言えるだろうか。

だからこそ道を知った聖人は、

例え契約や法によって正義が自分にあろうとも

相手を責めたりはしない。

徳のある者は債券を管理するだけ、

徳の無い者は無慈悲に取り立てを行うと言われるのである。

天のやり方には依怙贔屓が無く、

いつも善人の味方をするのである。

 

 

≪後述≫

勝てば官軍という言葉があるが、

勝てば良いというものではない。

 

どのような争いであろうとも、

必ず落とし所というものがある。

 

躾であろうが、

討論であろうが、

口論であろうが、

武力を用いた戦争であろうが、

必ず適切な落とし所は存在するのである。

 

ただ単に自らの正しさ、正義を頼りに

相手をコテンパンに何処までも追い詰めることを

傲慢と云わずして何と言うのであろうか。

 

仲裁とは、

有徳な人にとっては解決させるためのものであり、
悪徳の者にとっては相手を罪に追い込むためのものである。

 

本章の文末に

「天道は親無し、常に善人に与す」は、

老子 道経 虚用第五では、

多言數窮。不如守中。

仁愛を幾ら言葉で言い表そうとも

実行出来ずに終わるのならば、

余計な事は言わない方が良い。

 

適切な落とし所が見出せないなら、

仲裁をしなければ良い。

 

それでも仲裁をしなければならないならば、

その仲裁に仁愛を示すために、

その登場人物、経緯、経過等々について

真摯に、謙虚に、誠実に、公正に

見つることから始めなければならないであろう。

 

老子道経は、本章にて最終章となりました。

最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。

 

 

今日という日が

あなたにとって最善、最良の日となりますように!

                        

                             祈

苫米地英人集大成メソッドオールライフコーチングプログラム』

 

 

 

≪老子とは?!≫

老子とは春秋時代(B.C.770~B.C.403)の思想家で、道教の始祖です。

「老子」と書いた場合、

人物としての老子を意味することもあれば、

その学説を記した書である『老子』を意味することもあります。

 

人物としての老子に関しては、

確かな記録に乏しく、実在を疑う人もいます。

また、書物としての『老子』は老子単独で書いたものではなく、

複数の著者がいるのではな

いかという説もあります。

 

道家(どうか)の思想の原点は、

いうまでもなく老子が著したといわれる

『老子道徳経』(一般には『老子』といわれている)である。

それでは、

老子とはどんな人物であり、老子道徳経とはどんなものなのだろうか。

老子は、

司馬遷の『史記』によると

「楚(そ)の苦県(こけん)の厲郷(らいきょう)、曲仁里(きょくじんり)の人であり、

姓は李(り)氏、名は耳(じ)、字(あざな)は伯陽(はくよう)、おくりなして聃(たん)という」

となっています。

また『史記』には、

老子に教えを請うた孔子が、
「鳥は飛ぶもの、魚は泳ぐもの、獣は走るものくらいは私も知っている。

走るものは網でとらえ、泳ぐものは糸でつり、飛ぶものは矢で射ることも知っている。

であるが、

風雲に乗じて天に昇るといわれる竜だけは、私もまだ見たことはない。

今日、会見した老子はまさしく竜のような人物だ」といったと記されている。

だから、

もし老子が実在する人物であったなら、孔子と同じ時代、

紀元前五世紀頃の人だということが云える。

実在する人物であったならというのは、

老子は生没年代も明確ではなく、

また、老子道徳経の内容や文体を考察するならば、

一人の人物の頭脳から生まれたものとは考えにくく、

その頃の道家の思想を集大成したものと考えられるからである。

しかし、老子が実在の人物でないとしても、

それによって老子の思想的価値が下がるわけではない。

逆に、

儒教が孔子、仏教が釈迦、キリスト教がイエスの主観から生まれたのに対し、

老子道徳経は、

多くの頭脳の集積から生まれただけに、より普遍性を持ち、

真理をついた思想ということができる。

この老子の思想の中核を成すものが「無為自然」の思想である。

これは

「宇宙の現象には、人の生死も含めて、必然の法則が貫徹していて、

小さな人為や私意は入り込む余地はないのだ」という考え方が基本になっている。

つまり、人間などというものは、

宇宙から見ればゴミのような小さい存在であり、

人生は人の力ではどうにもならない自然の一コマに過ぎない。

しかし、人間はそういうことも分からずに、

さまざまな我執(がしゅう)に振り回されてあくせくしている。

人は生まれる前は“無”、そして死んでしまえばまた“無”に帰るわけで、

自分のものなど何もない。

このことに気づき、くだらない見栄や欲を捨てれば、

人生はもっともっと楽しくなる。

これこそが人間として最高の生き方であるという考え方だ。

これまで日本では、

この老子の思想というものはあまり重要視されて来ませんでした。

孔子の儒教に比べて冷遇されてきたとでもいうべきだろうか。

それは、時の権力者にとって、すべてにおいて儒教のほうが都合がよかったからである。

封建時代という階級社会では、

修身や治国を「……してはいけない」調で説く儒教の教えは歓迎されても、

「我執を放(ほ)かして楽しく生きましょう」という思想が

受け入れられるはずがなかったのである。

しかし、現在道家の思想が静かなブームを呼んでいる。

それはなぜだろうか。

それは、

今日あふれるほどの物質文明の恩恵をこうむるあまり、

精神的な拠り所を失っている人々が非常に多いからである。

人生とは何なのか、幸福とは何なのかを考えた時、

はたして明確な答を示してくれるものがあるだろうか。

富、名誉、そんなものは死んでしまえば何にもならない。

その答えはただ一つ。

「健康で楽しく生きること」ではないのか。

それが人間としての生き方の原点ではないのか。

それを前面に打ち出してうたってきたのが道家であり、老子なのだ。

まさしく老子は生きているのである。

今日ほど老子の思想が注目されている時代はない。
なお、老子道徳経の“道徳”とは、

宇宙には人為の及ばない法則(道)があり、

万物はその道から本性(徳)が与えられる。

というところから出たものである。

モラルの意味ではない。

 

 

人間がほんとうに真剣に何かに取り組み、

ぜひとも成功させたい、

させねばならないと思うとき、

そこからおのずと

神仏に祈るというほどの

敬虔(けいけん)な気持ちが湧き起こってくる。

 

この思いが

その人の持つ力を十二分に発揮させ、

大きな成果を生むのである。

 

何ごとにも祈るほどの真剣な思いで取り組みたい。

 

 

敬虔(けいけん):深く敬って態度をつつしむさま。

           特に、神仏につつしんで仕えるさま。

 
 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。

 

今日と云う日が

あなたにとって最良の日となりますように

 

                       祈

 

苫米地英人集大成メソッド『オールライフコーチングプログラム』