身近なケンミンショー

身近なケンミンショー

日常の生活範囲の中で見つけた身近にある都道府県や都市にまつわるお話しをゆるーく綴ります

Amebaでブログを始めよう!

                    1


 大阪府内で見ることができる京都府の巻である。
 
 大阪府には中華料理「餃子の「OS」のチェーン店が160店舗以上もある。

 全国の都道府県で最高の数である。

 また「餃子のOS」のチェーン店の総数は700店近くもある。
 恐らくこの数字は、中華チェーンの全国一であろうと思われるが、どうであろうか?


 「餃子のOS」は昭和の42年に京都の四条大宮で1号店の産声を挙げた店である。
 会社組織は「OSフードサービス」、京都発の店舗チェーンとして今日の隆盛を誇っている。


 他方、良く似た王将がある。
 会社名「IA」というチェーン店舗である。
 京都のOSの親類が始め、これも「OS」と云う商号を用いていた。


 詳細な経過は省くが、店名の是非を巡って裁判沙汰となった。
 その結果、京都の創業店は「餃子のOS」そして後発のOSは「大阪OS」「中華OS」と名乗ることで和解となり、現在がある。


 便宜的には創業の京都のチェーンを「京都OS」と呼ぶこともある。
 餃子の販売量は1日200万個を越えることもあるそうで、CMでは現在「餃子1日200万個」としている。


 次は京都発ラーメンである。

 京都以外でも知られている京都ルーツの有名ラーメン店には、「TKIP」と「YD」がある。


 「TKIP」の大阪府の店舗数は約50店、「YD」は大阪府では12店舗で、それぞれ大阪府内の店舗数が最も多くなっている。

 この2店、それぞれの本店の場所は一乗寺と吉祥院で、さしずめTKIPは北の横綱、YDは南の横綱であろう。
 この2つの大型チェーン店、似ているところもあるが、違うところも大いにある。


 先ずはTKIPである。
 通称「TI」と呼ばれる。

 こってりスープ系のラーメンである。
 こってりといても程度があるが、このラーメンスープが麺にまとわりつくほどのドロドロスープである。
 これが美味いと云って多くのファンを獲得した。

 TKIPの創業は昭和の46年、屋台からのスタートである。
 そして味の研究を重ね、昭和50年に最初の固定店舗を構えたという歴史を辿っている。


 TKIPのラーメンはもう何度も食べているが、この味は変わらない。
 見た目には重たい感じがするが、見かけによらずスッキリと食べることができる。

 TKIPは全国に230以上の店舗を誇っている。
 しかし多くはフランチャイズチェーン店で、TKIPの社員は60名程度しかいない。
 店は大型の店舗はあまりなく、そして街中中心で駅近の店が多いような気がする。


 ラーメンスープは共通で、本社工場で製造したものを配っているとのことである。
 麺はそれぞれ自由だそうであるが、必要なら本社から届けるシステムともなっている。


 スープは鶏ガラ醤油系で、こってり、あっさりの2種類がある。
 また、それを合わせた味がさね「こっさり」と云うのも店によっては出している。

 今や京都のラーメンと云えばTKIPと云われるまでになっている。


                    2


 もう一つは南の横綱YDである。

 ここはTKIPとは違い豚骨醤油ベースのラーメンである。


 屋台での創業は昭和47年、そして店舗を構えたのは昭和52年と、TKIPとほぼ同時期である。
 郊外型の大型店中心の展開で、店舗数は30店強であるが全て直営店である。
 従って社員は1000人以上もいる。


 YDも本社工場を持っていて、そこで製造されたスープとこちらは麺も各店舗に供給している。

 ここのラーメンも何年も前から食べているが、大きく味は変わることは無い。
 しかし、時代の流れと共に、味の嗜好も変化するので、微妙には対応しているのではと思われる。

 YDのラーメンは、スープは醤油の味に深みを持たせ、豚骨をあまり感じない独特の味である。


 麺は中細のストレート麺、これも好みである。
 テーブルにはネギの壺が置いてあり、乗せ放題でもある。


 さてこの2つのチェーン店、創業は同じころで、ラーメンスープの統一供給は同じであるが、それ以外の手法は全く違う。

 かつての京都のラーメンのイメージは、関西以外のところ特に東京などへ行くと、京風ラーメンという看板をよく見かけたことがあった。


 食べてみると醤油のラーメンで麺はストレート、いかにも「はんなり味」で、舞妓さんでも出てきそうな京都という感じのものであった。


 今でもそのような店は京都駅辺りにはある。

 しかし、そのイメージを払拭し、誤解を解いたこれらのチェーン店の功績は大きいと思われる。


 次は宇治茶である。


 我が国の茶の歴史は、禅宗の開祖、建仁寺開山のよく御存じの栄西禅師から始まる。
 栄西が中国から茶種を持ち帰って日本において茶の栽培を奨励し、喫茶の法を普及した。

 それ以前、我が国に茶樹がなかったわけでも、喫茶の風がなかったわけでもない。

 我が国に茶の種が入ったのは、古く奈良時代、遣隋使の手と思われる。
 そして平安時代には、貴族や僧侶の上流社会の間に喫茶の風が愛用されていた。

 栄西が少年時代を過ごした叡山にも、伝教大師以来、古くから茶との結びつきがあった。
 この伝統の影響を受けて栄西は、茶種の招来、喫茶の奨励、いままでごく一部の上流社会だけに限られていた茶を、広く一般社会にまで拡大させたと云うことである。


 栄西は1191年肥前佐賀脊振山(せぶりやま)の中腹にある霊仙(りょうぜん)寺に、宋から持ち帰った茶の種を蒔いたのが茶の栽培の最初とされる。

 その茶が、次に京の高山寺の明恵(めいけい)上人に伝えられ、栽培されたと云う。


 そして、南山城の海住山寺の高僧慈心上人が、その栂尾・高山寺の明恵上人より茶の種子の分与を受け、鷲峰山(じゅぶさん)山麓の和束でに栽培したのが始まりである。

 そして鷲峰山麓から、京都との間の宇治地区一帯に茶の栽培が広げられ、宇治茶は将軍家御用達となり、お茶壺道中も行われたのである。


 それではなぜ宇治茶が御用達になったのか?
 我が国最初の茶や品質と云うこともあろうが、関ヶ原の前哨戦でかつて家康の恩顧を受け、その時は宇治茶の商人になっていた上林竹庵が、すわ一大事と伏見城に籠城したことがきっかけである。
 
 ご承知のように守城方は全滅となったが、今度は家康がその籠城者の功績に応えたものであると云われている。

                    

                    3


 最後は酒である。


 京都には伏見と云う酒処がある。
 伏見台地の伏流水「御香水」を利用した酒で、柔らかい軟水である。
 それ故、灘の硬水から造った酒を男酒、伏見のは女酒と云われる。


 伏見には多くの酒蔵があるが、その中でも月桂冠を酒銘としている「OK酒造」が最も大きい。


 江戸時代になって、参勤交代の制度ができ、西国大名は大坂から船で伏見港に上陸し、旅装を整えるために暫く逗留した。
 そこで改めて大名行列となし、東海道を江戸へ下るようになったのである。

 このころは伏見は既に城下町ではなくなっていたが、西国の大名の必要性から、多くの大名屋敷や倉庫や旅籠が並んだ重要な拠点となっていたのである。


 旅籠なれば酒である。
 江戸時代の初めには、OK酒造を始め80軒のもの酒蔵があったと云われる。

 しかし幕府は灘や伊丹、池田を幕府直轄の酒造地として手厚く保護するも伏見には冷たかったのである。


 その理由であるが、秀吉の匂いのする酒はまかりならなかったのであろうか。
 更に京の町へ伏見の酒が入ることをも禁止した。
 伏見の造り酒屋は瞬く間に減って行ったと云われる。


 もう一つは幕末になって鳥羽伏見の戦いの勃発により、酒蔵の殆どが破壊されてしまったのであった。
 勤皇か佐幕か知らないが、他人の街を戦の名を借りて簡単に破壊してしまい、責任は取らないのが常である。


 京都の人々は、街を焼かれたりすることには慣れている。
 意地でも他人の手を借りずに再建するのが、京都人の良いところである。

 それに悪いことに天皇が東京に行幸してしまい、天皇不在となった京の人々は、あの手この手の産業興隆策を実行した。


 その中には勿論、酒造業の再建もあった。
 伏見の酒の盛り返しには凄いものがあったと云われている。

 その成果は、明治四十四年に開かれた政府主催の全国清酒品評会に、伏見から28点の出品がなされたと云う。
 そのうちの23点が入賞の栄に輝き、全国の最高位を占め、そのなかでも月桂冠は最優等の栄冠を博したという。

 幕府の施策に守られ、胡坐をかいてきた灘の酒蔵たちは驚いたという。
 その時以来、伏見は天下の酒処として全国に名を轟かせたのであった。


 以降月桂冠は全国トップシェアを維持し続けた。
 しかし現在は残念ながら灘の白鶴酒造にトップは譲っている。


 月桂冠の拡大戦略はカップ酒であった。
 明治の末にはすでに駅でコップ付きの酒を売ったという。

 そして、今から何十年か前に、業界初の200mlカップ酒を売り出し、業界は右に倣え…、先駆者利益もしっかり得ているのである。


 も一つ、米国へも比較的早い時期から進出していた。
 その関係で、米国内でのシェアは現在は25%もある。
 当時は「Gekkeikan」が日本酒の代名詞であったが、その後他社の進出もあり、「Sake」又「Japanese Sake」と呼ばれている。


 長くなるが、最後に余談…。


 昭和3年のこと、
 近鉄京都線(当時奈良電鉄)が京都と奈良間に電車を走らそうとして、伏見の町の縦断と、陸軍工兵隊練兵場を横断する路線を計画したそうである。

 民間鉄道が軍用地を横断するなんてとんでもないことで、許可されるわけはない。
 そこで窮余の策として、伏見の町の区間の地下化に変更したそうである。


 地下と云えば井戸である。
 申し入れられた伏見酒造組合は、酒の生命でもある仕込水の井戸があるところに地下電車を通すなんて、もってのほか…、設計変更を申し入れたのであった。
 併せて軍部や鉄道省に、少しは譲りなさいと申し入れたそうである。


 その結果、軍部は説得されて、工兵隊練兵場西部に、高架による用地使用を認めさせたと、いまだに語り継がれている。