3月11日(金)
私はその日、
大森にある会社にいました。
ぐらぐらって軽い揺れがしばらく続いたかと思うと、
その横揺れが急に大きくなり、
座っていた椅子が動いたり、
デスクの引き出しが開いたりしました。
その瞬間、
私の脳裏に浮かんだのは、
つい先日起きたばかりの
ニュージーランドでの大地震でした。
恐怖で逃げ出したくなりました。
けれど、会社の人たちは、笑っていました。
東京は震度5強だとわかりました。
大切な人が住む栃木県は震度6強でした。
震度7を観測したところもありました。
会社では誰も避難せず、仕事を続けました。
余震が続いている中、どういう神経だろうと思いました。
初めの地震から1時間がすぎた頃、
会社からようやく避難指示がでましたが、
その際、
さすがは直ぐ様避難指示を出さない会社らしい、非常識な指示をだしました。
制服を着用している女子は着替えてから避難するように
と。
一体何を考えているんだと思いました。
案の定、
更衣室はごった返し、
着替えの最中に再び余震が起こり、
叫び声もあがりました。
もしも、
もっと大きな地震が起きていたらどうなっていたでしょう。
大げさかもしれませんが、
ニュージーランドでの地震被害の映像を目にしていたら、
想像することは容易いです。
この会社は社員を殺す気かと本気で思いました。
近くの公園へ避難して会社へ戻ったのが16時を回っていました。
既に電車は止まっているだろう。
他の会社は帰宅命令をだし、タクシーもバスもいっぱいだろう、
なんて考えていたら、
会社から、自宅が遠い人から帰宅指示がでました。
今さら、しかもこんな時間に帰宅指示だされても‥と思いました。
駅に着くと、
電車は全線ストップ。
バスも大森近辺、行っても品川や蒲田までしか運行していませんでした。
蒲田から横浜にある自宅まで歩ける気はしませんでした。
せめて横浜まで行ければ、
6時間、7時間でつくかわからないけれど、歩けるのに。
何度もそう思いました。
しばらくすると雨が降り出しました。
JRは駅にいた人々を外へだし、シャッターをしめました。
せめて、雨や寒さをしのげる屋根のある場所くらい提供していてほしかった。
事情はあるのでしょうが、
無情だと思いました。
帰宅する唯一の方法はタクシーでした。
長蛇の列に女性同僚と二人で並びました。
途中、別の男性同僚二人が加わりました。
女性の同僚と、羽田空港に行ってリムジンバスで横浜まで行こうとしましたが、羽田空港行きのバスは運休していました。
それを知ると、女性同僚は、寒さに耐えられないと言って会社へ戻りました。
私は再び、男性同僚と一緒にタクシーを待つことにしました。
タクシーを待ちはじめてから3時間。タクシーは2台しか来ていないにも関わらず、随分列の前方へ進みました。
みんなどこかへ行ったんです。
一体どこへ行ったんでしょう。
幸い雨はやみ、
持っていたカイロは人数分ありましたが、
20時を過ぎると、寒さも限界になってきました。
3人いたおかげで、順番にトイレにいけたし、
交代で食事することもできました。
会話もできたので、寂しくも怖くもありませんでした。
もしも一人だったらと思うと‥
平気ではいられませんでした。
結局、タクシーを5時間待ったところで、
私は大森に住む人の家に泊めてもらえることになりました。
そこで携帯の充電ができたので、
実家へ連絡。
大切な人へも連絡しようとしたのですが、
全くつながらず。
ようやく連絡が取れたのは、
深夜2時すぎでした。
断水、停電のため、隣の市へ避難しているとのことでした。
眠れないまま明け方4時、
地震速報のアラームがなりました。
またいつ大きな揺れがくるとも分からない。
そのまま支度を始め、
唯一始発から運行していた京急に乗り、
1時間で最寄り駅まで行けるところ、3時間かけて帰宅しました。
朝7時から運行予定していた京浜東北線は
大幅に運行開始を遅れさせ、
関内駅の屋根崩壊のために、桜木町駅での折り返し運転となりました。
浜松町からJR経由で帰宅した父は、始発に朝7時から乗ったにも関わらず、
家に着いたのはお昼でした。
私はとにかく避難バッグを用意し、
朝10時を待ってドラッグストアへ行き、
家族4人が1週間毎日うちにいたとして必要と思われる消耗品を買いに行きました。
そのあとはただひたすらテレビで被災状況を知るばかりでした。
facebookには
たくさんの友人からの書き込みがされていました。
ついこの間まで、
私のほうが、ニュージーランドにいる友人の安否確認に使っていたツールです。
それが逆の立場になるなんて‥。
けれど、
各国に散らばった友人が
日本のことを案じてくれている。
それがこんなに嬉しいことだとは知りませんでした。
それが言葉だけではないことを
私たちは後々に知るわけです。
震度5強でさえ
このような状況なんです。
ましては東北地方の被災を思うと、
被災者の皆様のつらさや恐怖ははかり知れません。
もしも横浜に同じ規模の津波が来ていたら、
海まで歩いて行けるところにある実家は流されていたでしょう。
本当に他人事ではないんです。
海外にいる人たちでさえが、
心を傷め、
様々なかたちで支援してくれています。
こうして家に帰れたこと、
普段の生活が可能なことに感謝するとともに、
私たちだからできることを実行するだけです。
そして大切なのは、
この気持ちを一生忘れないことだと思います。
私はその日、
大森にある会社にいました。
ぐらぐらって軽い揺れがしばらく続いたかと思うと、
その横揺れが急に大きくなり、
座っていた椅子が動いたり、
デスクの引き出しが開いたりしました。
その瞬間、
私の脳裏に浮かんだのは、
つい先日起きたばかりの
ニュージーランドでの大地震でした。
恐怖で逃げ出したくなりました。
けれど、会社の人たちは、笑っていました。
東京は震度5強だとわかりました。
大切な人が住む栃木県は震度6強でした。
震度7を観測したところもありました。
会社では誰も避難せず、仕事を続けました。
余震が続いている中、どういう神経だろうと思いました。
初めの地震から1時間がすぎた頃、
会社からようやく避難指示がでましたが、
その際、
さすがは直ぐ様避難指示を出さない会社らしい、非常識な指示をだしました。
制服を着用している女子は着替えてから避難するように
と。
一体何を考えているんだと思いました。
案の定、
更衣室はごった返し、
着替えの最中に再び余震が起こり、
叫び声もあがりました。
もしも、
もっと大きな地震が起きていたらどうなっていたでしょう。
大げさかもしれませんが、
ニュージーランドでの地震被害の映像を目にしていたら、
想像することは容易いです。
この会社は社員を殺す気かと本気で思いました。
近くの公園へ避難して会社へ戻ったのが16時を回っていました。
既に電車は止まっているだろう。
他の会社は帰宅命令をだし、タクシーもバスもいっぱいだろう、
なんて考えていたら、
会社から、自宅が遠い人から帰宅指示がでました。
今さら、しかもこんな時間に帰宅指示だされても‥と思いました。
駅に着くと、
電車は全線ストップ。
バスも大森近辺、行っても品川や蒲田までしか運行していませんでした。
蒲田から横浜にある自宅まで歩ける気はしませんでした。
せめて横浜まで行ければ、
6時間、7時間でつくかわからないけれど、歩けるのに。
何度もそう思いました。
しばらくすると雨が降り出しました。
JRは駅にいた人々を外へだし、シャッターをしめました。
せめて、雨や寒さをしのげる屋根のある場所くらい提供していてほしかった。
事情はあるのでしょうが、
無情だと思いました。
帰宅する唯一の方法はタクシーでした。
長蛇の列に女性同僚と二人で並びました。
途中、別の男性同僚二人が加わりました。
女性の同僚と、羽田空港に行ってリムジンバスで横浜まで行こうとしましたが、羽田空港行きのバスは運休していました。
それを知ると、女性同僚は、寒さに耐えられないと言って会社へ戻りました。
私は再び、男性同僚と一緒にタクシーを待つことにしました。
タクシーを待ちはじめてから3時間。タクシーは2台しか来ていないにも関わらず、随分列の前方へ進みました。
みんなどこかへ行ったんです。
一体どこへ行ったんでしょう。
幸い雨はやみ、
持っていたカイロは人数分ありましたが、
20時を過ぎると、寒さも限界になってきました。
3人いたおかげで、順番にトイレにいけたし、
交代で食事することもできました。
会話もできたので、寂しくも怖くもありませんでした。
もしも一人だったらと思うと‥
平気ではいられませんでした。
結局、タクシーを5時間待ったところで、
私は大森に住む人の家に泊めてもらえることになりました。
そこで携帯の充電ができたので、
実家へ連絡。
大切な人へも連絡しようとしたのですが、
全くつながらず。
ようやく連絡が取れたのは、
深夜2時すぎでした。
断水、停電のため、隣の市へ避難しているとのことでした。
眠れないまま明け方4時、
地震速報のアラームがなりました。
またいつ大きな揺れがくるとも分からない。
そのまま支度を始め、
唯一始発から運行していた京急に乗り、
1時間で最寄り駅まで行けるところ、3時間かけて帰宅しました。
朝7時から運行予定していた京浜東北線は
大幅に運行開始を遅れさせ、
関内駅の屋根崩壊のために、桜木町駅での折り返し運転となりました。
浜松町からJR経由で帰宅した父は、始発に朝7時から乗ったにも関わらず、
家に着いたのはお昼でした。
私はとにかく避難バッグを用意し、
朝10時を待ってドラッグストアへ行き、
家族4人が1週間毎日うちにいたとして必要と思われる消耗品を買いに行きました。
そのあとはただひたすらテレビで被災状況を知るばかりでした。
facebookには
たくさんの友人からの書き込みがされていました。
ついこの間まで、
私のほうが、ニュージーランドにいる友人の安否確認に使っていたツールです。
それが逆の立場になるなんて‥。
けれど、
各国に散らばった友人が
日本のことを案じてくれている。
それがこんなに嬉しいことだとは知りませんでした。
それが言葉だけではないことを
私たちは後々に知るわけです。
震度5強でさえ
このような状況なんです。
ましては東北地方の被災を思うと、
被災者の皆様のつらさや恐怖ははかり知れません。
もしも横浜に同じ規模の津波が来ていたら、
海まで歩いて行けるところにある実家は流されていたでしょう。
本当に他人事ではないんです。
海外にいる人たちでさえが、
心を傷め、
様々なかたちで支援してくれています。
こうして家に帰れたこと、
普段の生活が可能なことに感謝するとともに、
私たちだからできることを実行するだけです。
そして大切なのは、
この気持ちを一生忘れないことだと思います。