そんなわけで、

岡田斗司夫さんのメルマガで5回にわたって書かれた

「カタギとヤクザの話」

の全文を掲載したいと思います。

こんなこと書かれてるから、載っけて問題ないはず。


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このメールは転載歓迎です。ただし、下記のメールマガジンが出所である旨、必ず、URLを明記してください。

岡田斗司夫の毎日メルマガ~力尽きるまで
http://www.mag2.com/m/0001148694.html

よかったら、感想をTwitterで @toshiookadaまで教えてください。必ず見ています。
http://go.otaking-ex.com/RKjMqiy0

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メルマガ5回分なので、長いです。
では。



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2月22日
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あなたはヤクザですか?
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おはよう! 岡田斗司夫です。

今日のテーマは
土曜・・・恋愛と人生パーティー
です!

最近、ヤクザとカタギの境界が崩れている気がします。

この場合のヤクザというのは、暴力団とかそういう具体的な「職業」の話じゃありません。

なんというか、「稼業」と言うんでしょうか、生き方そのものの話です。

たとえば、僕の仕事は「ヤクザ」です。

20代で自分の店を持って、30前にはアニメ会社を経営していました。

30代で物書きになって、40代では大学で教えながらテレビに出たり本を書いたりしていました。

別に悪いことはしてないんですけど、なんとなく「普通」じゃありません。

まともに就職していないし、人の言うこと聞いてノルマをこなして、毎月決まった額の給料を貰ってるわけじゃありません。

ガマンより工夫が大事。

常識より新しい発想が大事。

そういう仕事を僕は「ヤクザな仕事」と呼びます。

僕だけじゃなく、オールウェイズな昭和30年代以前に生まれた人ならみんな、この感覚を持っているんじゃ無いでしょうか?

サラリーマンやお店やってたり、工場や職人の人たちはカタギ。

それ以外の、自由業だったり、収入が上下動する人たちはヤクザ。

こんな仕分けが昭和の時代の日本にはあったのです。

だからマンガ家や小説家が彼女にプロポーズしても、親に「そんなヤクザな仕事の男に娘はやれない!」と反対されたりしました。

スポーツ選手もヤクザ稼業だし、タレントやアーティストもすべてヤクザ。

テレビに出るような人は、どんなにマジメそうに見えようともみんなヤクザです。

大学教授でも、テレビに出ちゃったら「あの教授、マジメそうに見えたのにテレビになんか出てる」と後ろ指を指されました。

で、そんな昭和的価値観の「ヤクザとカタギ」の境界が崩れちゃった、という話です。

ちょっと明日に続きます。

じゃあ、また明日。バイバイ!


2月23日
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僕は「ヤクザ」でした
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おはよう! 岡田斗司夫です。

昨日の続きです。

メルマガが配信されたら、こんなツイートがありました。

「収入が不定期なら、派遣や非正規もヤクザなんですか?」

もちろん違います。

八百屋さんだって、売り上げの上下があるけど、カタギです。

というか、ヤクザとは定義論ではなく自覚の問題、というのが昭和の価値観でした。

昔の話をします。

20代の前半、僕は大阪の下町で小さなお店をやっていました。

自分ブランドのグッズやアパレルを作って、自分のお店で売る商売です。

ヒットする商品もあれば、ダメな商品もあります。

だから経営はいつも不安定。お金はあるのかないのか、わかんない状態でした。

食事はいつも外食。結婚したばかりの妻と店から歩いて20分の距離に住んでいたけど、そのマンションの台所ではお湯を沸かす以上の家事をしませんでした。

毎晩、仲間と焼肉やピザや居酒屋でしゃべりながら、夢を語ったり説教したりされたり、商品企画をしたり、テレビで見た番組の話をしながら、食事していました。

ある日のランチ、この日も「いつもの連中」といっしょにご飯を食べました。

安いピザ屋でいろんなピザを頼みました。

食事中でも連絡が入ったらすぐに切り上げなければいけません。

最悪10分で食事は終わりかもしれない。2時間ぐらい余裕あるかも知れない。

毎日そういう状態だったので、僕たちは席に着くなり「食べたいもの」をすべてオーダーしました。

数種類のピザやサラダ、サイドオーダーなど。

人数分とか考えず、とりあえずどんどん注文します。

食事中の会話が打合せになるかも知れず、そうなったらお店からスタッフを呼び出して,その場で食べながら会議を続ける場合もあるからです。

だからいつも多い目に注文し、食べきれない場合は残します。

そういう食事スタイルが当たり前でした。

いまでもゲーム系やIT系の会社で、そういう風景を目にすると「懐かしいな」って思います。

さて、その日のランチも同じでした。

けっきょく参加者は増えず、3人で5人前の注文をして、「欲しい分だけ」食べて会計を済ませました。

テーブルの上には、食べきれなかったものが残っています。

「ヤクザと同じだなぁ」と仲間の一人が言いました。

どういう意味でしょう?

あと一日だけ、続けさせてください。

じゃあ、また明日。バイバイ!



2月24日
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あなたに「明日」はありますか?
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おはよう! 岡田斗司夫です。

ヤクザ話の続きです。

大阪の下町に生まれ育った僕にとって、ヤクザさんは身近な存在です。

誰もがご近所や親戚、同級生にヤクザっぽい人がいた時代でした。

本物のヤクザさんの生活はハデです。

金無垢の腕時計をしていたり、ワニ皮の財布を持っていたりします。

タバコは海外製品しか吸いませんし、自家用車もでかいアメ車ばかりです。

彼らは、なぜそんなわかりやすい「ヤクザっぽい」格好や消費をするのでしょう?

自己顕示、というのももちろんあるでしょう。

でも一番大きい要素は

【明日がないから今日は贅沢する】

だと思いました。

いま羽振りが良かったり、人が周囲にいても、いつゼロになるかわからない。

景気が良い時は全力で周囲に「景気が良いぞ!」とアピールしないと、周りから一目置いてもらえない。

カネはある時に使わないと、使い方がわからなくなる。

これらの考え方すべての大元にあるのは「今と同じ状態が,明日も続くとは限らない」という人生観です。

ヤクザな生き方、とは上のような「明日が無いから今日に全力投球」という生き方だと思います。

で、話は戻ります。

ピザ屋で、いろんなものを食べ散らかした僕たち。

その食べっぷりは、子供の頃に見たヤクザの食事風景とそっくりでした。

とりあえず注文する。

欲しい分だけ食べる。

残すのがもったいない、と考えるより「カネがあるんだから、欲しいモノは全部オーダーする」と考える。

これがヤクザな生き方です。カタギの生き方「毎日、キチンとやるべき事をやる。分不相応な夢は追わずに、まず堅実に、を第一に生きる」とは正反対なんです。

さて、おとついのメルマガに戻ります。

最初の一文はこれでした。

>最近、ヤクザとカタギの境界が崩れている気がします。

そうなんですよね。IT系とか金融とかサービス業とか、なんかみんな「昭和の時代ならヤクザ」な考え方してるんです。

で、僕の話したいのはここからです。

すいません、話が長くて…

じゃあ、また明日。バイバイ!


2月26日
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ヤクザはなぜ消費を「誇示」するのか?
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おはよう! 岡田斗司夫です。

ヤクザ話の続き、もうすこし続きます。

昨日のメルマガを読んだクラウド市民「Xanthippes」さんの日記に、こう書かれていました。ちなみにXanthippesはクサンティッペ、と読みます。ソクラテスの、口うるさい悪妻の名前です。

「芸能文化史を研究されている南博さんの研究が引用されてましたが、それによると、カタギとは最初室町時代ごろは形木と書いていたそうで、先達が開拓して基本型となったことを木型にいれて押し固めるようにそれをなぞって日々精進することを指したそうです。それが江戸ごろにはカタギの当て字に気質を当てるようになり日々の精進を目指す性格と言いますか精神的な気概の意が込められたと。」

ふむ、面白い!

さて本題に戻りましょう。

【明日がないから今日は贅沢する】がヤクザ的価値観の本質だ、と僕は書きました。

毎日、マジメに列に並んでがんばるのがカタギなら、一発逆転を夢見て抜け道を探すのがヤクザです。

だからヤクザ的生き方の大半は、カタギに比べて貧しい生き方になります。

「一発逆転」とは、ほとんど失敗するけど、ほんの一握りだけ成功する、という意味だからです。

そんな貧しい暮らしを覚悟してでも飛び込むのがヤクザな世界です。

一か八かで飛び込んだヤクザ的な商売でも、一定の確率で成功者はあらわれます。

ほんの一握りは成功するんだから、当たり前ですね。

彼らの成功は、まっとうな努力や精進ではなく「運」や「才覚」で掴んだものです。

才覚がまっとうではない? そのとおり、努力や精進のない「才覚」だけの成功は、カタギ的ではありません。

それは「博奕(バクチ)打ちの才能=博才(バクサイ)」と呼ばれるもので、そういう成功で得た成果を「あぶく銭」と呼びました。

そして、カタギの仕事で得たお金と、あぶく銭はちゃんと区別すべきものだったのです。

あぶく銭を稼いだヤクザものは、まるで誇示するようにそれを使います。

だって「ほとんどが失敗する生き方」だからこそ、成功がうれしくてしかたない。

周囲のカタギの人にコンプレックスがあるからこそ、成功したら「お前らみたいにバカ正直に暮らさずにオレ良かったよ!」と言わずにいられない。

だからヤクザものは蕩費し、贅沢し、それを誇示するんです。

だからこそ、カタギはヤクザものの金遣いを見て「あ~あ、やっぱりヤクザだねぇ」と眉をしかめながら許してあげるんですよ。

・・・あ~、もう一日だけ続きます。

この「ヤクザとカタギ」の話、明日で終わらせます!

じゃあ、また明日。バイバイ!



2月28日
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失われた社会資源「カタギな人々」とは?
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おはよう! 岡田斗司夫です。

今日で「カタギとヤクザの話」は最終回です。

もともと、この話は「最近、カタギとヤクザの境界があいまいになってきた」という僕の感想からはじまりました。

境界が崩れたら、なにか困るのでしょうか?

なぜ境界は崩れてきたのでしょうか?

人は「天然資源の枯渇」を心配します。

しかし「社会資源の枯渇」を心配する人はあまりいません。

僕が思うに、「カタギな人生観」というのは、日本人が持つ世界に類例のない「社会資源」でした。

だから問題なんです。なぜかというと・・・

かつての日本人、ほんの十数年前までの日本人は、大部分が「カタギな人生観」でした。

そういう大部分の人たちを「一般大衆」と呼びました。

「カタギな一般大衆」こそ、実は経済高度成長時代の原動力でした。

たとえば学校教育制度は、大多数のカタギ感性の親や教師がいてこそ成立します。

ヤクザ的感性、すなわち成功報酬や才能・やりがい優先では「同年代の子どもを一ヶ所に集めて、教科書を学ばせる」という集団教育は上手く作動しません。

個性を認め、教師や権威への尊敬よりも、仲間や身内への忠誠、といったヤクザ的感性が優先するからです。

また、大多数のカタギ感性の職場や上司・同僚がいてこその生涯雇用や新卒就職体制です。

ヤクザ的感性では、常に自分の才能や個性と、自分の職場のマッチングを疑うことになります。

こういう「高度情報サービス化した就職観」と、大量・同時採用の就職現場はどう考えても原理的に無理があるんですよね。

「セレブ」という言葉が流行り、「上品」という言葉が失われました。

「セレブ」とは「高価な物を買えたり、高価なサービスを受け取れる人」のことです。

しかし、カタギな世界観ではそもそも高価なものが買えるはずも無く、もし買ったとしてもそれは「分不相応」な贅沢です。

つまり「自分の身の丈をガマンできず、買いたいという欲望に負けた」みっともないサマを晒しているだけ。

だからカタギの世界では、高価な物を買ったり、それを誇示するのは「下品」な行為になります。

ヤクザな人たちだけが、ヤクザっぽい職種ゆえに得たあぶく銭で、高価で悪趣味なものを買いました。

意味なく高い腕時計やハンドバッグなどです。

だから「高価な物は下品」なんです。

同じく、運を自慢するのは下品です。

「才能」という、努力以外で得たものを自慢するのも同じく下品。

美貌やスタイルを自慢するのも、もちろん下品な行為になります。

それを自慢するのはヤクザや下品な人だけ。

カタギの人たちは貧しいかも知れないけど、品性が落ちることは嫌がります。

なので美しく生まれ育った娘がアイドルやタレントになろうとすると恥じて、「マトモに行きなさい」と教えました。

企業に就職しても、受付嬢など要望優先の職場に配属されたりすると、本人も家族も恥じたものです。

自分の美貌という、なんの努力もしないで得たもので幸せになろうとするな、と注意したわけですね。

生まれや親の資産を自慢するのも、同じく下品です。

だから生まれや育ちがいい人は、カタギである限りそれを自慢せずに社会還元しようとします。

ヤクザな人たちには、こういう上品下品があまりわかりません。

買えるから買う。欲しいから買う。それが当たり前。

どこが悪い? と彼らは聞きます。

もちろん悪くありません。

「下品」なだけです。

ヤクザの世界では「悪くないならOK」ですが、カタギの世界では「美しくなければNG」です。

ヤクザの世界は損得でできていて、カタギの世界は美醜でできています。

マンションの前に不法駐車や駐輪して、捕まらないからラッキー!と考えるのがヤクザ。

自宅の前を朝、ホウキで掃き清めるのがカタギ。

いかがでしょうか?

メルマガ読者のみなさんは、ヤクザですか? カタギですか?

僕は残念ながら、ヤクザです。

みなさんの大部分も、すでにカタギ的感性を半分ぐらい失ってるんじゃないかな?

いまの日本人の大部分は、おそらくカタギではなくヤクザです。

「カタギに生きる」という大衆文化を失ってしまった。

この数十年の、最大の「失われた社会資産」だと思います。

だから教育システムも、就職システムも、上手く作動しません。

この失われた社会資産を回復する処方箋を、あいにく僕は持ち合わせていません。

せめての対処法は、「ヤクザはヤクザらしく生きる」ことだと僕は思います。

自分で選んだヤクザな生き方なら、「人並みの幸せ」は求めない。

せめてカタギには迷惑かけない。

カタギな生き方をバカにしないし、下に見ない。

自分の才能や、やりたいことで生きていく、と決めたなら配偶者や子どもなんかいなくて当たり前。

老後は無くて当たり前。

財産も無くて当たり前。

それでもかまわない。カタギと違う生き方を選びたい。

たとえヤクザな生き方で経済的に成功しても、カタギの人たちに恥をかかせない。

ヤクザな生き方で成功しろ!という本など書かない(笑)

その覚悟と矜持だけは忘れないでおこうと思います。

ヤクザな生き方は下品だけど、それでも「美学」だけはあると信じたいからです。

・・・ふう、疲れました。

明日からメルマガは数日、お休みします。

「毎日書きます」と言いながら、勝手に熱くなって勝手に暴走して疲れたら、いきなりのお休み宣言。

やっぱり僕はヤクザですね(笑)

カタギの皆さん、申し訳ありません。

岡田斗司夫の書き下ろしメルマガは、3月5日(水)より再開します。

それまで、僕のスタッフが用意してくれる代理メルマガを楽しんでください。

じゃあ、また来週。バイバイ!



~~~~~~~~~~

というものでした。

このメルマガは無料ですので、興味をもった方は登録してみてください。
同ネタが続くことは稀で、普段は1日1ネタです。

さて、この話の私の感想は、多分次の次くらいになると思います。
まず、ちきりんさんから。
最近、3つの面白い記事に出会った。


「下から7割の人のための理科&算数教育」

「失われた社会資源「カタギな人々」とは?」

「生コンが来ない! 建設現場の悲痛な叫び」


2番目のは、岡田斗司夫さんのメルマガにあった記事なので、
次のエントリーで全文載せます


この3つは根っこが同じな様に見えるんですよね。

ちょっと考えてみたいと思います。

「出る杭は打たれる」
1才能・手腕があってぬきんでている人は、とかく人から憎まれる。
2 さし出たことをする者は、人から非難され、制裁を受ける。

これに対して、
「出すぎた杭は打たれない」
という言い方があります。

!?
違和感を覚えます。

出すぎた杭は切り揃えられるからです。
杭に長さや太さが数種類ある場合、状況に応じて使い分けます。
ところが、短い杭が必要な本数に足りない時、長い杭で代用します。
この際、長さを揃える必要があれば、長い杭は切り揃えられます。
もしくは、同じ長さになるまでひたすら打ち込まれます。
杭は、抜いて再利用されることもあるのですが、
一度切られてしまった長い杭は、短い杭の仲間入りをしてしまいます。
長い杭として再利用されることは、ありません。
ついでに言うと、杭は全て打たれます。

「出すぎた杭は打たれない」
それを言うなら、
「高い煙突は煙たがられない」
この方が、よほどニュアンスが近いのではないかと思われます。


ググってみると、
「出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打たれない」とおしゃったのは
かの松下幸之助さんだとか。

「経営の神様」に対して一介のフリーターがなんとも恐れ多い。
出すぎた真似を致しました。

Gunosyさんがこんなトゥギャりを教えてくれたので、覗きに行ってみた。
アイコンのネコ率の高さが気になったがそれは置いとく。

非難殺到『あなたの言っていることは、あなた以外の世界では通用しませんよ』はどう解釈するべきなのか?

元記事は毎日新聞のサイト


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サイエンスカフェ:「科学者ではない」
毎日新聞 2013年09月12日 東京朝刊

 最近、取材で「私たちのことを理解してくれているようですね」と複数の研究者から言われた。「科学者としての立場や思考回路を分かっている」という意味だと解釈したが、内心、「これはまずい」と感じている。
 アレルギー体質に苦しんだ根源を知りたくてサイエンスを扱う現在の科学環境部を希望、東京と大阪で勤務して11年になる。しかし学生時代、文学部哲学科社会学専攻だった私にとって、当初は取材対象者の言葉が「宇宙語」にしか聞こえなかった。科学的な内容より「理系の研究者とはなぜ、こんな考え方、表現をするのか」と理解不能な日々が続いた。だが、やがて「科学者とはこんなもの」と自分の中で折り合いをつけ、取材するようになる。そこに慢心がなかったか。
 科学記者は、科学者ではない。その他の分野でも同じことだが、「あなたの言っていることは、あなた以外の世界では通用しませんよ」と指摘することも、私たちの重要な役割だと思う。そのことを改めて肝に銘じ、今後も仕事を続けたい。【江口一】
~~~~~~~~~~

新聞社の記事っていつ消えるかわからないので、一応引用。
(もちろんムキョカなので、怒られたら引用は消します)



まとめられた意見を見るとまず目に付くのが、
「科学記者のくせに科学者の言うことがわからないのは勉強不足だからだ。
自身の勉強不足を棚に上げ科学者に文句を言うとはけしからん」
という論調だ。こういう避難が殺到したようである。


違うと思う。この記者は正しい。


この記者は、
『内心、「これはまずい」と感じている。』から『そのことを改めて肝に銘じ、今後も仕事を続けたい。』
という話をしている。


私が思うに、科学者のみならずあらゆる専門家は「視野狭窄」なのが当たり前であって、
一般常識など持ち合わせてなくても構わない。
専門家は「広さ」より「深さ」を求められるからだ。
だから、科学者の言葉が科学者以外の世界で通用しないのは、別にかまわない。
ところが、記者はそうは行かない。一般の人に伝えるのが仕事だからで、「広さ」が求められる。

でもこの記者は、最近自分が科学者寄りになっていることに気がついた。
おそらく、取材を続け、勉強を重ね、科学者の世界に浸かっているうちに
自分の思考回路が記者のそれでなく、科学者の思考回路に上書きされていく事に
気がついたんだろうと思う。

「このままでは、自分は読者に通じる記事を書けなくなってしまう」
記者がまずいと思った「これ」とはこういうことなんだと思う。

「読者に通じる記事が書けなくなるのはまずい!自分は科学記者であって科学者ではないのだから」
そう思ったからこそ、タイトルが「科学者ではない」なのだろう。
単に科学者に文句が言いたいのなら、こんなタイトルにはならないと思う。
「科学者ではない」の主語は「私は」であって、もし、主語が「科学者は」なら
「一般人ではない」とか「理解ができない」とかになってたはずである。

「あなたの言っていることは、あなた以外の世界では通用しませんよ」
と指摘されてるのはもちろん科学者もだが、そこには
「科学者寄りの思考パターンに陥ってしまっている自分」も含まれてるはずで、
指摘してるのは「わずかに残っている記者としての自分」だと思う。
そして、わざわざこれを記事にしたのは
「科学者寄りの思考パターンに陥ってしまっている自分」と
「同じような過ちを犯してるかもしれない同業者」に訴えたいからであり
もはや「科学者」はあんまり関係ない。
この記事の矛先は科学者にはほとんど向いていないのである。


ところが、ツイートはしばらく記者批判で盛り上がり
「記者本人の自戒」を指摘する人はワリと後の方に登場する。
火消し役は後から登場する。
何故か?

話題にならないと気づかないからだ。

私は先ほど、「この記者は正しい」と書いた。

この記事の文章は誤解を招きやすい。トゥギャり主も
「書き方に問題があるのか、書こうとした内容に問題があるのか。」
と書いているが書き方に問題があると思う。
だから正しい。

この記事を要約すると、「私は伝わりにくい文章を書きそうだ」であり、
それを伝わりにくい文章で書いている。

「この記者の指摘は正しい」
私はそう思った。
多分、この元記事だけを目にしたのならそのままスルーしてただろう。
おかしなとこなど無いからだ。

科学者批判が殆ど無いことも気になる。
記者批判をした人は多分
「新聞記者=マスゴミ」という思考のバイアスが掛かってるところに、
キャッチーなフレーズが目についたモノだから
それ以外をろくに見ること無く騒ぎ出したのではないだろうか。
ヒット曲のサビだけ歌えて、それ以外の部分はメロディーラインすらわからないように。

「あなたの言っていることは、あなた以外の世界では通用しませんよ」
なんてフレーズにほとんど意味なんかないのに。
「業界の常識は世間の非常識」なんて普通のことだ。


とまぁ、私はこの顛末をこう解釈してみたけど、
如何なもんでしょう。


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