私が、経済戦争と生コンについて、
あーでもない、こーでもない、と考えてる間に
茂木健一郎さんが、予備校と偏差値を批判したらしい。
ちょっと寄り道。
これ、
こないだのちきりんさんと言ってること一緒じゃん。
つまり、
「一つのルールに囚われるな」
ということ。
そして、
やっぱり反論として目につくのは
「予備校」や「偏差値」の必要性を説いたものばかり。
「ルールは一つでいいんだ」
という反論を、私は今のところ見てない。
私は、
「一つのルールに囚われるな」
というのは、大賛成。
とはいえ、
茂木さんのツイート見て気になった点が少々。
まず、
「
画一的なペーパーテストで学力を見ることが、多様化した現代の学力観にそぐわない」
そのとおりだと思うんですけど、
だったら、偏差値を「無くす」のでなく「増やす」べきなのでは?
私は、高校もろくに出てないんで、自分の偏差値を知らない。
算出方法も知らない。
(ググれば判るんだろうけど、そんな気にもならない)
でも、偏差値が「志望校に受かるかどうかの目安」であることは想像がつく。
(この認識で、あってるよね?)
つまり、
偏差値とは座標だ。自分の現在地を知るためのものだ。
一元的な偏差値では、例えば「緯度」しか判らない。
縦軸の緯度だけでなく、横軸の経度も判ってはじめて、
地図上での現在位置が解る。
学力観が多様化したなら、偏差値も多様化すべきなのでは?
これは言っとかなきゃ、いけないな
と、思ったのが
「
お前らが勝手に計算している「偏差値」とかやらで、どれだけ多くの18歳が傷ついていると思っているんだ」
ちょっと、危険。言葉が足りない。
取りように依っては、悪いのは「全部」予備校になってしまう。
私は、云うなれば「脱学歴、脱就職派」だ。ただしこれは、
「勉強をするな、働くな」ということではない。
「学生じゃなくても勉強はできるし、会社員じゃなくても、仕事はできる」
だから、肩書にこだわるな。
ということなんだけど、
「肩書を捨てるなら、その代わり覚悟を持て」
と、併せて言いたい。
偏差値が低くて傷つくのは、学力が足りないのでなくて、覚悟が足りないのだ。
私はそう考える。
予備校講師は、生徒の学力を上げさせるのが仕事だ。
リソースをそこに集中させる。視野狭窄の始まりである。
学力以外の要素、「覚悟」など思い至らなくなる。
講師も生徒も。
生徒は講師によってその状況に追い込まれた。
とも言える。
それでも私は、
「覚悟を失うほど自分自身を見失った、生徒自身の非」
を見過ごすことができない。
「自分自身を見失うことを、他人のせいにする」ことを認めてしまうとは、
「自分自身という存在」そのものを危うくしてしまう。
「生かすも殺すも他人次第」ということなのだから。
自分自身が生きるのに、「自分の意志」が必要なくなる。
こりゃ、マズイんじゃないかな。
そして、
「
学びの本質が何なのか、全く判っていないやつらが教育界、受験界を牛耳っている」
一連のツイートの発端は、つまるところこれなんだと思う。
これについては同意。
詳しくは次回。
…全然進まないよぉ、、、orz