大変、ご無沙汰致しております。

 

ずいぶん長いこと放置していた当ブログですが、久しぶりにアクセス解析などしてみた所、訪問者数0という日がないので驚きました。1桁ではありますが(たまに2桁)ここを訪れてる人がいるわけで、だったら何か書かなきゃ申し訳ない。

 

 

もともと、

 

「歴史は蛇行する。だから世の中はデフォルトで間違ってる」

だから世の中が間違ってる事に対して、腹を立てなくてもいいんだよ。

 

という事が言いたくて始めたブログだったのですが、コレがうまく言葉にまとまんない。

そしてだんだん趣旨からズレていってしまった。

なので放置していたのですが、

 

 

 

みなさん、この続きを読みたいですか?

私が、経済戦争と生コンについて、
あーでもない、こーでもない、と考えてる間に
茂木健一郎さんが、予備校と偏差値を批判したらしい。
ちょっと寄り道。

これこないだのちきりんさんと言ってること一緒じゃん。
つまり、
「一つのルールに囚われるな」
ということ。

そして、やっぱり反論として目につくのは
「予備校」や「偏差値」の必要性を説いたものばかり。
「ルールは一つでいいんだ」
という反論を、私は今のところ見てない。


私は、
「一つのルールに囚われるな」
というのは、大賛成。

とはいえ、
茂木さんのツイート見て気になった点が少々。



まず、
画一的なペーパーテストで学力を見ることが、多様化した現代の学力観にそぐわない
そのとおりだと思うんですけど、
だったら、偏差値を「無くす」のでなく「増やす」べきなのでは?

私は、高校もろくに出てないんで、自分の偏差値を知らない。
算出方法も知らない。
(ググれば判るんだろうけど、そんな気にもならない)
でも、偏差値が「志望校に受かるかどうかの目安」であることは想像がつく。
(この認識で、あってるよね?)
つまり、
偏差値とは座標だ。自分の現在地を知るためのものだ。
一元的な偏差値では、例えば「緯度」しか判らない。
縦軸の緯度だけでなく、横軸の経度も判ってはじめて、
地図上での現在位置が解る。

学力観が多様化したなら、偏差値も多様化すべきなのでは?




これは言っとかなきゃ、いけないな
と、思ったのが
お前らが勝手に計算している「偏差値」とかやらで、どれだけ多くの18歳が傷ついていると思っているんだ
ちょっと、危険。言葉が足りない。
取りように依っては、悪いのは「全部」予備校になってしまう。

私は、云うなれば「脱学歴、脱就職派」だ。
ただしこれは、
「勉強をするな、働くな」ということではない。
「学生じゃなくても勉強はできるし、会社員じゃなくても、仕事はできる」
だから、肩書にこだわるな。
ということなんだけど、
「肩書を捨てるなら、その代わり覚悟を持て」
と、併せて言いたい。

偏差値が低くて傷つくのは、学力が足りないのでなくて、覚悟が足りないのだ。
私はそう考える。

予備校講師は、生徒の学力を上げさせるのが仕事だ。
リソースをそこに集中させる。視野狭窄の始まりである。
学力以外の要素、「覚悟」など思い至らなくなる。
講師も生徒も。

生徒は講師によってその状況に追い込まれた。
とも言える。
それでも私は、

「覚悟を失うほど自分自身を見失った、生徒自身の非」

を見過ごすことができない。
「自分自身を見失うことを、他人のせいにする」ことを認めてしまうとは、
「自分自身という存在」そのものを危うくしてしまう。
「生かすも殺すも他人次第」ということなのだから。

自分自身が生きるのに、「自分の意志」が必要なくなる。
こりゃ、マズイんじゃないかな。




そして、
学びの本質が何なのか、全く判っていないやつらが教育界、受験界を牛耳っている
一連のツイートの発端は、つまるところこれなんだと思う。
これについては同意。
詳しくは次回。



…全然進まないよぉ、、、orz
かつて、一世を風靡したアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」
その第9話に、こんなシーンがありました。

冬月副司令「君たちの仕事は何だかわかるか?」
アスカ「エヴァの操縦」
冬月「違う!使徒に勝つ事だ!」

…確かに。
トラックの運転手さんは、荷物を運ぶ事が仕事です。



「学校に通う理由は、机の前に拘束される苦痛の訓練である」

これ実は、私が考えたわけじゃありません。
中学の時の先生が、授業中の雑談で言ってました。
でも、これ以上に腑に落ちる説明を私は聞いたことありません。
学校で教わる知識は、役に立つことばかりではないのです。
でなきゃ、「あり、おり、はべり、いまそがり」なんて知識いつ使うんだよ?
(A.今使ってます)
岡田斗司夫さんも、いつぞやの講演で、
「国家が国民を学校に通う通わせるのは、時間通りに働く癖をつける為」
てな趣旨の発言をされてました。
残念ながら、いつだったか忘れてしまいましたが。。。

寺子屋や、私塾が誕生したのは、おそらく生徒が学ぶためだったのでしょう。
でも、国家は「学校」と、「義務教育」を作った。


「役に立つ事を学びたい」というのは、学ぶ側の都合です。
教える側には、また別の思惑があります。
「従順な労働者を育成することです」


学ぶのは、立身出世のため。学校に通う側の理由です。
教えるのは富国強兵のため。学校を作る側の理由です。
学力を上げるのも、労働に慣れさせるのも
国を富ませるためです。



「自分に関係ない知識」を習わなきゃいけないのは、
「自分に関係ない仕事」をするための訓練ではないでしょうか?
私はそう思うんです。
今まで、田舎で、自分の家の畑を耕してた人達を、
街の工場で働かせなければならなくなった。
製紙工場の女工さん達が、絹の着物を着てたとは思えません。
自分が食べる野菜じゃなく、
誰が着るか判らない絹を作らせなければならなくなった。

「学校」の原点はこれだったんじゃないでしょうか?



そして、教育界が「受験戦争」に突入していった頃から、
学校は「魚の釣り方を教わる場所」ではなく、
「魚を与えられる場所」に変わっていってしまった。

大事なのは、
すぐ役に立つ知識という「モノ」じゃなくて、
苦痛を伴う勉強という「行為」なんです。



国家が国民に苦痛を強いるのは、
それによって国を富ませるためだった。

ところが、これが最近うまく行ってない。
富が得にくくなって、苦痛だけが残った。




次回

経済戦争

生コンに話は飛びます。

仕事ってなんですか?

もちろん、あなたの職業を訊いてるワケじゃありません。
「仕事」という言葉の定義です。
あなたは、「仕事」って何のことだと思いますか?



どうやら一般的には、
「収入を得る手段」
と認識してる人が多いようです。そんな風に見えます。

私は違うんです。



「学校なんか行ってたら、勉強が出来ない」
と思ったから学校を辞め、
「会社なんか行ってたら、仕事が出来ない」
と思ったから会社を辞めました。

なので私は、高校中退のフリーターです。



私にとって仕事とは
「本当はやりたくなんかないけど、やらなきゃいけないこと」
です。
もうちょっとキレイな言い方をするなら
「やるべきこと」
ですかね。でもこれだと「使命」というニュアンスが強まっちゃいます。

そんな大げさなモンでも、ないんですよ。



「仕事」と「収入」は本来無関係。
収入の得られない仕事も存在する。

こんな風に考えてます。

例えば、家事。主婦って普通無給ですよね。
最近だと雪かき。
家の前の雪かきをしても給料は貰えません。
これらを趣味としてやる人って、
あんまりいませんよね。

かと言ってボランティアとも違う。
やっぱり仕事という言葉がしっくりきます。


でも、一般的には仕事と収入、というか就職は混同されがちです。
就職は仕事の一部に過ぎません。下位互換なんです。
「就職は仕事の一部、そんなこと知ってるよ」という方、多いと思います。
でも、

「生きて行くためには就職しなければいけません。
そのためには学校に行かなければいけません」
これは現在の常識です。
この常識が浸透した為に、
「収入を得られない仕事」「進学に関係無い学問」は
すっかり影が薄くなってしまいました。

それにより、
「学校という制度が学問の意味を矮小化させ、
就職という制度が仕事の意味を矮小化させた」
そう思ってます。



私が最初に勤めたのは、客商売でした。
なので私は、「お客様の役に立つ仕事」がしたかった。
しかし実際は、「会社の役に立つ仕事」しかさせてもらえなかった。
もうちょっと言うと、
効率を重視する為「やっつけ仕事」しか出来ない状況だったのです。
不本意。
それを「やらなきゃいけない仕事」とは思えなかったのです。
なので辞めてしまいました。


さて、
学校とは「教わる場所」でしょうか?
それとも「学ぶ場所」でしょうか?


次回

国家と教育(仮)

まぁ、そんな感じの内容になるはずです。
2014-02-25 下から7割の人のための理科&算数教育 - Chikirinの日記


関連記事をgunosyさんが3つ教えてくれました。

「ちきりん氏のお粗末な科学教育論 - バッタもん日記」
「「役に立つ知識」としての学問 - やまもといちろうBLOG」
「「ただの知識」だけ学校で教えてもあまり役には立たない - 脱社畜ブログ」



……。

読んでみたけど、

「つまんない!!」



今回、ちきりんさんがいいたかったのは、この2点だと思う。私はそう読んだ。

1,「全員で同じことをやるのが平等だ」という歪んだ平等思想こそが、多くの人たちを不幸にしていると思うのです。
2,「○○を学校で教えるべき!」と主張する人は、そのかわり、今、教えられていることで不要なことも併せて指摘するべきです。

1の結論部分を云うために、2の部分を具体例を上げて書いた。



ところが、
お三方とも、結論部分には触れてないのである。
「なぜ、知識が必要か?」を説いただけ。

2の具体例は、割かれた文字数こそ多いものの、その辺枝葉末節なので
「どーでもいーや」
と思っちゃったんです。

だいたい、ちきりんさんも
>私は「数学的な考え方を理解することや、科学教育が不要だ」と考えてるわけではありません。
って書いてますし。
どうも、反論する方は「木を見て森を見ない」傾向にあるようです。
 (まぁ、私の場合「森を見て、木を見ない」ことが多いんですが、、、)


私は、1も2も賛成、全く同意。
特に1はヤクザや生コンに関係がある。大いにある。
そう思ってます。



とはいえ、この記事に全面的に賛成か、といえば、そうでもない。
私は、最初に読んだ時、2つのツイートをした。


学校教育とは、「デスクワークに慣れさせる為のもの」であって、内容は何でも良い。
と私は考えます。
 


というか、苦痛を与えるものの方が良い。
「会社員」を育てる為には。



お三方のみならず、ブロゴスのコメ欄の方々も、そしてちきりんさんも
大前提が違ってるんじゃないのかな?

「学校は、無駄な知識を教える場所。
何故なら労働訓練のための施設だから」
であった。と私は考えます。

問題は
「学校が訓練施設として機能しなくなってること」
だと思うんですよ。



次回

「仕事」と「学問」の矮小化

今日中に書けたらいいなぁ。。。