土佐中村・安並の石見寺を訪問 | やまざるのブログ

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土佐中村・安並の石見寺を訪問


勝頼一行は二人の僧侶と神官たちに守られて土佐落ちをした!


天正13年寺村に流光山成福寺を建立、一人はこの寺の住職になり。


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寺村観音堂。流光山成福寺   聖観音立像(町指定文化財)


明治5年廃物希釈の煽りを受けて消失したと。何れも同じ道を!

もう一人は安並の石見寺の僧侶となると系図に書かれていた。



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石見寺の本堂の前で        住職と意見交換


後、歴代の住職の墓地を案内頂きました。

この寺は明治の廃仏毀釈で焼き払われ資料がのこっていないという。


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残念です。この寺は後に建てられたもので、元は此処より山の上に有ったとのことですので、そこを調査すれば古い墓があるかもしれませんね。

今日は、この後昔の友人の家に立ち寄り帰りました。


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この石見寺の住職の世話で宿毛平田寺山松村右京源秀春の養子となるとも書かれている、幼名武田小三郎・松村六太夫・後寺村六太夫

・天正2年(1574)高遠で生まれる、父と共に土佐に下るとも。


考察


時代の荒波に飲み込まれた、歴史がありました。

宿毛の延光寺は、石見寺の末寺とのことですが四国霊場札所をはく奪される理由はなんだったのでしょうか。


長宗我部氏が1600年関ヶ原まで支配していた幡多地域に貢献していた証拠ではないか、武田正晴(勝頼の三男母は三枝の娘)が養子に行った松村家はどんな家だったのか、まだまだ調査が必要です。




残念ながら、1600年頃の墓は存在せず100年後位からのものでした。やはり此処も関ヶ原以後の政変で圧制政治があったと考えられ、四国88か所霊場だった指定が39番宿毛の赤亀山延光寺に鞍替えさせられたのでは!