魏志倭人伝で撰者陳寿が述べた女王国の位置とその理由は?

 

今日はマイナーな話題

 

三国志の撰者陳寿が魏志東夷伝倭人の条で、卑弥呼の女王国の位置について自身の推測を述べた個所がある。

 

すなわち「その道理を計るに、まさに会稽東治(あるいは東冶)の東にあるべし」と。

 

陳寿はなぜそこが女王国の位置だと思ったのだろうか?

 

倭人伝にある原文(武英殿本)は、「その道理を計るに、まさに会稽・東治の東にあるべし」とある。

ところが、范曄撰の後漢書の列伝の倭条では、「その地は、おおよそ会稽・東冶の東にあり」となっている。

 

どちらが正しいのか? というか、どちらが陳寿の考えだったのだろうか?

 

ちなみに三国志では重なった2つの地名のうち、先の地名は郡名、後の地名は県名となると古田武彦氏は指摘した。

 

会稽とは揚子江の下流域、現在の浙江省紹興市である。東治は会稽郡の県の一つである。

 

一方東(とうや)は会稽よりさらに南の福州(その東は尖閣諸島や台湾)である。 

       

果たしてどちらが正しいかについて、まず徐氏と謝氏の説を紹介し、最後に自説を述べたい。

 

徐堯輝氏はその著書「女王卑彌呼と躬臣の人びと」で、多くの史料を参照しながら(長くなるので省略)、結論として 

①     会稽・東治という書式は会稽郡東治県のこと。東治は後漢末から三国時代にかけて実在した県名であって、所在は、郡治、山陰県の東方にある海岸地方、今の鎮海・定海あたりらしく思われる。

 

②     冶県・東冶県という県名があったのは、武帝以後の前漢の時だけで、以後の東冶は地方の名称として残った。後漢の光武帝は冶県を章安県と改称し、もとの冶県の一部分を東部侯国とした。三国時代の後期では章安侯国となり、その後置かれたのが侯官県。(中華)民国以後は閩(びん)県と合併して、閩侯県となった。今の福州である。

 

③     したがって、会稽(郡)・東治(県)とある三国志の記述は正しい。後漢書の列伝・倭条にある会稽東冶は、会稽東治の誤りであろう

とされた。

 

確かに三国志の時代には会稽(郡)・東治(県)は存在し、冶県という名称は改称されたようだが、

以下に述べる謝氏の「会稽・東冶」説を私なりに要約すると、陳寿が生きていた時代は魏・呉・蜀が戦争状態だったことで、それぞれの地方での行政区域での改制はリアルタイムで把握することは難しく、そのため過去の記録を使用した可能性があるという主張もうなずけるところがある。

 

謝銘仁氏の著書「邪馬台国 中国人はこう読む」から該当箇所を要約する。

氏は、漢代から会稽と東冶の両地名が歴然として存在並称されているとして、いくつもの史料を挙げておられる。その一部を紹介する。(わかりやすいように語句を足している)

 

史記の東越列伝第54に、「漢5年 また無諸を立てて越王となし、閩中の故地に王し、東冶に都す」とある。

 

また三国志「呉志」巻15「呂岱伝」の中にも、「会稽・東冶5県の賊、呂合・秦狼らが乱を為し、(孫)権は呂岱を督軍校尉にして、将軍蔣欽らと兵を率いてこれを討ち、ついに合・狼を虜にし、5県を平定す」と、東冶が会稽と並んで出ている。

 

魏志巻13「王朗伝」に、王朗が会稽の太守であったとき、兵を挙げて孫策と戦い、敗北し,海路で東冶に落ち延びたとある。

同じことが、

呉志巻15賀斉伝にも「・・・王朗、東冶に奔り、候官の長、商升は朗のために兵を起こす」とあることから、東冶は侯官県の付近にある地名であり、今の福州方面である。このことも矛盾を生じない。

 

また陳衍の「福建通志」に引く「元和郡県志」巻29福州下の条にも、「郡、また冶県あり、・・・呉ここに典船都尉を立て謫徒(流罪人)の人を司り、船を作らしむ」とあるように、典船都尉を任命して、冶県で流罪人の造船作業を監督させた記録がある。

 

特に東冶は閩江の流域にあり、昔から陸路よりも水路によって外地と交渉を保ち、淡水と食糧の補給要地でもあった。そのころ、交趾(今のハノイ付近)あたりからの朝貢船は、常に東冶を拠点としていた」。

 

そして謝氏は、

「また当時の行政区域は頻繁に改制され、コミュニケーションは魏・呉・蜀などの個々の行政体内の狭い地区内で、限られた人たちの中で送られ受け取られていた(私注:三国が相争っている状況)。したがって陳寿などは史実・地誌などを記録するのに、各行政体内の地名を、すべて改制時点に合わせて記すことができたとは限らない。(例をあげてあるが省略)これらの史実からして、会稽・東冶と書いても決して不自然ではない」と述べている。

 

次に謝氏は「郡より女王国に至る万二千余里」の郡と「その道理を計るに」の道理(私注:距離)とのかかわりから推断すると、東冶は県名でもよいし、または単なる地名でもよいのではなかろうかと述べている。

 

「陳寿がここで述べたいことは「帯方郡から女王国までの道程は1万2千余里」ということである。この道程は、あくまで朝鮮半島(私注:遼東半島の誤り)の帯方郡を出発点としての事である。しかしこの表現では中国人には分かりにくい。帯方郡も倭国も遥か遠い異域である。そこでなじみのある地名を用いて、「その距離はあたかも会稽郡の東冶より東の女王国に至るまでの道理に相当する」と説明したのである。

なお、道理とは彼我両地点間の道程(距離)を言うのであって、方角を指すものではない。

「南至投馬国 水行20日・・・南至邪馬台国・・・水行10日陸行1月」やら『倭地温暖』などは、中国王朝の知識人たちの先入観で、倭国の所在を実際よりも南にあったと思っていたのである」。

 

ところで面白いことに、山形有郷著「卑弥呼の正体」によれば、ポルトガル人サンチェスにより作成されたという。東アジア地形図(1640年)では、朝鮮半島が南に長く延長されて描かれており、その先端は会稽のやや南のあたりにまで至っている。その結果会稽の東側はまさに現在の朝鮮半島南部に該当することになる。(ちなみに朝鮮半島の北端は大陸とつながっておらず、その間は狭い海峡で隔てられている。つまり島になっている)。

 

山形氏は、「この地図で判別すると、倭人伝が記載する如く、会稽=紹興市の東側はまさに現在の朝鮮半島そのものに該当し、それは本論でやや拡大して捉えてみた倭国の位置と奇妙な一致を見る。故に面白い事実が判明するといった所以である」と述べる。

 

続けて山形氏は「16~17世紀といえば、…ヨーロッパ先進国がこぞって真の意味での世界支配体制・世界観、あるいは共通の世界史観の下に激動し始めた時代であるにもかかわらず、この程度の地理観しか持ち合わせていなかったとしたら、この時代よりはるか1400年前もの北方系中国人がどのような地理概念を持っていたか、それは想像の域をはるかに出るものでしかなかったと言えはしないか」と述べている。

 

たしかに陳寿の倭国の位置のイメージはこのようなものであったと思ってみるのも面白いかもしれない。

私としては、謝氏の言われる帯方郡から女王国までの距離を読む人にわかりやすくするために例として陳寿が「その距離はあたかも会稽郡の東冶より東の女王国に至るまでの道理に相当する」としたのであれば、基点となる場所は会稽郡の東治県でも東冶地方(福州)でもどちらでもよいように思われる。

ただ当時の中国の史家が倭地が温暖であると誤解していたらしいことを考えると、陳寿は東冶地方(福州)を想像していたのではないかという思いも捨てきれないところではある。

 

ところで会稽といえば、漢書地理志・呉地に「会稽海外、東鯷(てい)国あり 分かれて二十余国を為す 歳時を以って来たり献見すという」とある。鯷は鯰(なまず)のことだから、東鯷国は漁業を主とする国なのかもしれない。この東鯷国のことも陳寿は知っていたと思われるので、この東鯷国をイメージしていたかもしれないという妄想が膨らむ。

 

ここまで