卑弥呼の女王国のありかは日本の北部九州でも畿内でもないという別の証拠
女王国の場所についてはこれまでありとあらゆる説がなされたが、日本列島内で決め手となる卑弥呼の宮殿や墓が未だに見つからないのはなぜか?
加治木義弘:卑弥呼を攻めた神武天皇より引用
① 卑弥呼の宮殿と同等クラスの建築物の遺跡は北部九州でも畿内でも発掘されていない
② 北部九州でも畿内でも3世紀以前の古墳は見つかっていない。箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説もあるが、箸墓は前方後円墳であり、卑弥呼の墓は円墳なので別物である。
同様に中国の皇帝から贈られた親魏倭王の金印や銅鏡100枚も見つかっていない
卑弥呼の宮殿について
加治木氏によると、
「「倭人伝」の中に描写されている「ヒミコの居処」は「宮・室・楼・観・城・柵を厳しく設け」と書いてあるが、中国で「楼」というのは2階建て以上の高層建築であり、「観」というのは古来宗教建築の事である。「城」も堅固な高い城壁を巡らしたものをいう。「宮」はもちろん宮殿で、当時の中国人の常識では豪壮を極めた建築物を指す。
倭人伝には明瞭に「梯儁(ていしゅん)が倭王に拝仮(直接会って)魏からの贈り物を渡した」と書いてある。
梯儁はヒミコの豪壮な宮殿や寺院や高層建築や城壁をその目で見て、相当する中国建築を基準に報告したのである。
いま佐賀県の吉野ケ里遺跡に掘っ立て式の弥生家屋と「物見やぐら」程度の貧弱なものとが復元されているが、当時の中国にはごく小さな村でももって立派な邸宅があった。吉野ケ里程度のものなら、梯儁は絶対に宮室楼観などとは書かない。」
正始元年(西暦240年)、
帯方郡の太守・弓遵(きゅうじゅん)は、建中校射の梯儁(ていしゅん)等を遣わした。
梯儁等は証書と印綬を奉じて(持って)、倭国を訪問し
倭王(卑弥呼)に拝仮(皇帝に代わって仮に拝礼)し、並びに詔書を持ち込み、
金八両・帛(白絹)・紺地句文綿・罽(毛織物)・五尺刀二振・銅鏡百枚・各彩物を賜わった。
卑弥呼の墓について(既述)
・魏志倭人伝
[卑弥呼すでに死す、大いに冢(ちょう)を作る、径百余歩、循葬せる者、奴婢百余人」
徐堯輝氏によると、
大いにとは、冢の大小にかかわらず、この工事が大掛かりだったという意味である。
冢の周囲が円形で、直径が百余歩、循葬者百余人を容れるに足るだけの大きさというのが大掛かりの説明と考えられる。
循葬(殉葬)とは死者に生前と同じく服侍させるために属下の僕人・奴婢を生きたまま墓中または墓域に一緒に埋めることである。
円形墳であったことも特徴の一つ。
また、冢(ちょう)とは高い墳墓のことである。
径百余歩とは、結論だけ言うと、直径なので、円周に換算すると314余歩。
メートル換算で円周が144余mになり、後漢の歴代の皇帝の陵墓より大きかったことになると徐堯輝氏は述べている。
ちなみに「歩」とは歩いた歩数ではなく、長さの単位である。
卑弥呼の死んだ3世紀中葉、このように巨大な墳墓は日本列島のどこにも発見されていないので、魏志の誤りであるとする説があるが、これこそ卑弥呼が日本列島にいなかった重大な証拠であると考える。
ちなみに奈良県桜井市の箸墓古墳は前方後円墳で、円墳ではない。
ここまで