毎年思うが、桜が満開の頃、必ずと言っていいほど天候不順になる…そして、乱れザクラとなる。
もう少し残ってもらっても…と思うが、こればかりは。
ただ、この後の新緑の時節が、自分は好きだ。
(但し、花粉症は勘弁…目がまともに開かない)
今時、どこの実戦空手の様子を見て思うことがある。
基本から初め移動、型をやり…その後のミットやら組手稽古を観て不思議に思う。
この順番は、極真空手が始めた体系ともいえる。
無論、伝統派のそれも同じようなものがあるが、その内容は、極真のそれである。
別にそれが良い悪いを述べるつもりは、毛頭ない。
ただ、やる者いややらせている者達は、疑念を抱かないのかと…その基本や型が、組手と全く違うカタチをしていることをどう説明しているのであろうかと。
その昔、その戦い方は、伝統派のそれに近く基本や型の応用と言えなくもない戦い方が、行えた。
しかし、競技化が、進みルールが整うほどにその戦い方は、基本や型とは乖離せざるえなくなった。
競技に勝つならばと、それらの体系を逸脱し合理的トレーニングとスパーリングに特化した団体は、特に少年部の大会などで明らかな成果を上げ始め今に至るのでは…
そして何もそれを悪いとは、言わない。
それも一つの方法論である以上は、正しいやり方と言えよう。であるならば、殊更、空手を標榜し「カタチばかりの型」をやっているのは…如何なものか…。
私は、何故「基本、型」をやるか年代別に説明解説している。それが空手を教えている者の責務であるから。
訳もわからず、やらされる稽古ほど無意味なものはない。そして、それを教える者は、それを体現できなければならない。
つまり、少なくとも型の身体操作や部分的技の転用を今の競技カラテに応用適用出来なければならないと考えている。
「型が出来る者は組手も強い」みたいな曖昧模糊とした言い訳は、成り立たない。
正しくは「型と組手両方をある程度の領域に持っていくために、それだけの稽古量を積んだ。
その結果として、どちらも強く上手くなっただけだと。
稽古の量が、二倍三倍に増えれば、相乗効果としてどちらも、程度の差はあれ上達して当然。
無論、転用するかしないかは、それをやる者の意識によるため、その論は別となる。
単に習い事の範疇と捉え、カタチばかりの基本や型を教えている…カラテなのだから型くらい出来た方が…
それが現代の風潮などだとしたら…何とも言い難い。
少なくとも私が目の届く限り、そうならないよう努めなければ、武道界から笑われてしまう気がしてならない。
単に強い弱いだけが、武道ではない。
がしかし、競技に活かせなくてはやっている意味がないと感じてならない。
型の解釈は、やる人の数だけあって然るべき。
ならば、私は、自身の思考すらカラテを教え伝えていきたいと願うばかりだ…。