バガヴァッドギータ。ヴェーダンタの聖典。私はこちらに出会う前、口癖は「私ばっかり忙しい。」「時間がある人が羨ましい。」「もっと〇〇になりたい。」「もっと〇〇がしたい。」「結局何をしても満たされない。報われない。」

大変不自由な人でした。


たしかに日々の生活は隙間がない。仕事、子供達の習い事の付き添いは毎日。帰宅は21時半すぎ、そこからご飯、お風呂…子供達が寝てからも翌日のご飯の仕込みに洗濯。。就寝は0時過ぎるし。朝は早い。旦那は部署が変わってからほとんど帰ってこない。

私ばっかり不自由。好きで選んだ仕事も不自由な時間と認識して。

仕事を制限するのも嫌だった。自分の価値が落ちるようだし、収入も保障も減る。自分のしたい事が自由にできないと。
私だけがあなたに合わせて仕事をしなきゃならないのかと旦那とも喧嘩ばかり。


そんな思考までもがわがままな私が、、


仕事をあっさり非常勤にして、仕事も子供達のサポート、家庭の事に喜びを感じられている。

私は自分のラーガドヴェーシャに左右される考えの束縛から自由になりたかった。

あれをしたら幸せ、こうなったら幸せ…そんなサムサーラから開放されたかったと気がつく事ができた。
全てを不自由にしていたのは自分の勘違いから。

自分の選んだ先にイーシュワラとの調和を感じたい。束縛から自由になりたい。つまりモークシャを得たい。

そう願うように。すると自然と今、やるべき事をダルマを基準にして選べるように。そしてしなきゃならないことから、したいことに。この手や足、技術を使ってイーシュワラと調和できる喜び。子供は最大のプラサーダであると実感でき、今の優先順位もはっきりと変わった。
(たとえば一人で子供を育てていくなら私は仕事も以前と同じペースで続けただろうけど)

日々の生活がまさにヨーガ。仕事も子育ても家事もこの宇宙との調和のためで、そこに喜びを感じる事ができるから、束縛がない。

もっというなら、、自分の境遇に対して報われないと感じることがなくなっていった。父から見放され父を憎んでいた、高校時代、親に苦労かけさせてまで部活のため親元離れて進学したが全国大会直前で選手生命絶たれる大怪我。運命を呪ったこともあった。でも、そんな境遇を今は恩恵として受け取っている。その時の苦しみを知らなければ、今のものの見方はなかった。目には見えない恩恵に大変感謝をしている。

ヴェーダンタを学ぶともうね、びびるよ!と、やのちさと先生がいっていたが、まさにびびってるます笑笑

しかし何がダルマで何がアダルマか。注意深く見ていないと私はすぐに自分のラーガドヴェーシャに連れさられてしまう。

だから、日々の生活がまさに練習。そして聖典の言葉を熟考。その繰り返し。

ヴェーダンタの学びは誘ってはならない、なぜならヴェーダンタの学びを熟考できるある程度の考えの準備が必要で、必要な人は自然とヴェーダンタの学びに辿り着くと言われている。が、もし興味を持ってギータの本を手にしてくれたなら、ヴェーダンタの学びはきちんと学んだ先生から学んで欲しい。本を読み進めるだけでは自分の解釈になってしまう。聖典の言葉はとても繊細。一つの詩、一つの単語に何時間も費やします。アナログだけど、それがインドの伝統的な教え方。その歴代の先生達のおかげで数千年経った今も正しい学びが続いている。




今、Amazonを検索すれば多数のバガヴァッドギータが。しかし、どうか独学で学んだつもりにはならないで欲しいと願います。



どうかバガヴァッドギータ等のヴェーダンタの聖典を手にした人が、きちんと識別が起きて独学ではなく良いगुरु(先生)に出会って、学びを深められますように。