原理講論和訳研究174
「メシヤの降臨とその再臨の目的」の「第二節 エリヤの再臨と洗礼ヨハネ、(三)洗礼ヨハネの不信」において、
「事実、洗礼ヨハネがイエスに洗礼を授け、彼を証したことによって、彼の証人としての使命はみな終わったのであった。では、その後における彼の使命は何であったのだろうか。彼の父親ザカリヤは聖霊によって感動させられ、まだ胎内にいた洗礼ヨハネに対して「生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである」(ルカ一・75)と、彼の使命を明白に預言したのであった。それゆえに、洗礼ヨハネはイエスを証したのちには、彼の前に一人の弟子の立場で彼に従い、仕えなければならなかったのである。」
という訳文があるが、ここに掲載したものの最後には「従い」とあるが、原文は「侍り」である。
「侍り」を「従い」と訳す必要はないと思う。
「メシヤの降臨とその再臨の目的」の「第二節 エリヤの再臨と洗礼ヨハネ、(三)洗礼ヨハネの不信」において、
「事実、洗礼ヨハネがイエスに洗礼を授け、彼を証したことによって、彼の証人としての使命はみな終わったのであった。では、その後における彼の使命は何であったのだろうか。彼の父親ザカリヤは聖霊によって感動させられ、まだ胎内にいた洗礼ヨハネに対して「生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである」(ルカ一・75)と、彼の使命を明白に預言したのであった。それゆえに、洗礼ヨハネはイエスを証したのちには、彼の前に一人の弟子の立場で彼に従い、仕えなければならなかったのである。」
という訳文があるが、ここに掲載したものの最後には「従い」とあるが、原文は「侍り」である。
「侍り」を「従い」と訳す必要はないと思う。