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「(修復済)「(  )による福音書」には、イエスの受洗が
掲載されていない。( )を埋めよ」のつづきです。


洗礼ヨハネがイエスを、ごく初期に不信したことを人に悟らせるために、難しい知識は必要ない。
聖書学的な知識とか、神学的な知識などがなくても、判断できることがあり、この問題はその類に入ると思う。
タイトルに掲げた問いかけに対する答えは、普通の人が納得できるだろうと思う。
この「洗礼ヨハネは何故イエスに付いて行かなかったか」という問いの答えを模索しよう。

自分は、2月24日アップの記事である
(修復済)「(  )による福音書」には、イエスの受洗が掲載されていない。( )を埋めよ
で、「ヨハネによる福音書」のまとめをしてみた。
洗礼ヨハネが「エリヤではない」と発言した日からの一週間だけのまとめである。

洗礼ヨハネがイエスを「神の子羊」と証しした。
強い霊力をもって多くの民衆を動員してきていた洗礼ヨハネがイエスを証しした。

しかし、ヨルダン川下流を離れて、ガリラヤ地方に帰って行かれたイエスとともに付いて行ったのは、
たったの5人である。イエスと寝食を共にしたのはたった5人である。
これは、洗礼ヨハネの証しはまったく効果がなかったと言っても言い過ぎではないのではないか。

では、何故、効果がなかったのか。彼の霊力というか、霊的迫力は確かに強かった
だから、パリサイ人やサドカイ人が大勢、彼のもとに洗礼を受けに来た。罪の悔い改めのために。

にもかかわらず、イエスを「神の子羊」と証言した、ヨハネの証言には、霊的な迫力はなかった…。

それは、洗礼ヨハネがイエスに心では従っていなかったからではないか。
洗礼ヨハネはイエスに洗礼を授けてから、イエスに付いて行った形跡は、聖書にはない。
この洗礼ヨハネの行動こそ、彼のイエスに対する心を如実に現しているのではないか。

そもそも、ヨハネがイエスに付いて行かなかったことは、異常なことである。
異常なこと? 何故に異常なことと言えるのか。
それについて次に述べてみよう。

[1]洗礼ヨハネは「自分の後から来る人」がどんな人かを自分と比較して
語っていた

自分のあとから来る人
①火と聖霊でバプテスマを授ける
②自分よりも力のある方、自分よりもすぐれた方

〔洗礼ヨハネ〕
①水でバプテスマを授ける
②そのお方の靴の紐を解く値打ちもない
(当時、靴の紐を解くのは奴隷の仕事だとのこと。ヨハネはイエスに対して
奴隷の位置にも立てない、それよりも劣るのだと彼は発言していたのである)


[2]洗礼ヨハネにとって、とても尊い、そのお方のために、彼はバプテスマ
運動を展開していた
ということは、彼の日々の生活の中心がそのお方にあったといえる

[3]更に言うならば、父ザカリヤの奇跡体験があり、そして、将来来られるお方の
ために洗礼ヨハネは祭司の教育を受け、また、修行をしたのであろう。そして、
霊力も強くなった

あとから来る人」は、とても尊いお方であり、実に、自分はそのお方のために生まれ、生長し、そして、今、バプテスマ運動を展開している。そのヨハネの前にそのお方が現われたのである。
なんと神からの教示を受けて、イエスが、自分の人生の目的であるとも言ってもいいかもしれない、
そのお方であると認識したのである。

ヨハネは、御霊が鳩のように下って来るのを見る前に、既に、イエス尊いお方であることを知っていた。

「わたしこそ、あなたからバプテスマ(洗礼)を受けるはずですのに、
あなたがわたしのところにおいでになるのですか」
それに対してイエスは答えた、
「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就
するのは、われわれにふさわしいことである」

その後、イエスに洗礼を授けてみると、確かに御霊が鳩のようにイエスに下った。
ヨハネはその現象を見たのである。

ここで、私たちは、自分自身を、洗礼ヨハネの立場に置いてみよう。
もし、自分が洗礼ヨハネの立場に立っていたら、どのような行動をとるかという問いである。

自分がそのお方の靴の紐を解く値打ちもない、それほどそのお方は自分にとって尊いのであり、
自分の人生はそのお方のためにあったとしたら、
そして、神からの啓示にあったように、自分がそのお方にバプテスマを授けたときに、
「御霊がはとのように下る」のを見たら、
自分はどんな行動をとるか。

その出会いを最後にして、そのお方付き従って行くことなく別行動をとるのか。

それは、おかしい。それは異常ではないか。
洗礼ヨハネは、イエスを、そのとき既に、不信していたのである。

神学的な知識はいらない。聖書的な知識も不要だ。私たちは洗礼ヨハネがイエスに出会う前に語り、行動していた、その言動から、イエスに対する洗礼ヨハネの不信を高い確率で推定することができるのではないか。

けれども、この洗礼ヨハネに対するイエスの不信が、洗礼を授けた直後からの不信が、指摘され、問題視されてこなかった。キリスト教の歴史においてである。
もし、「統一原理」は、鋭い観点を提示して、今まで見えなかったこと、気がつかなかったことを教示してくれるものであるなら、これは
       神の「啓示
であることを予感させる。


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