「喜び」の分析の重要性。何故なら、すべてはそこから出発するから。

[1]まず、聖書がそうだ。聖書66巻の一番初めにあるのは「創世記」。人間を最後に創造した後、その園を「エデン」と命名した。その「エデン」の意味は「歓喜」ということは以前指摘した。

[2]次に、「原理講論」はどうか。総序の冒頭の一文は、その「喜び」をテーマにしている。そして、それに続く文はそれを補っている。

「人間は、何人といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。個人のささいな出来事から、歴史を左右する重大な問題に至るまで、すべては結局のところ、等しく、幸福になろうとする生の表現にほかならないのである。」

これは「統一原理」の「人間観」である。人間は「喜びを求めてやまない情的な衝動」を一番奥深いところに有している存在であるという人間観である。そのことを「人間は心情的存在である」と表現している。
膨大な「統一原理」の論理的体系の一番の出発点は、この「人間観」にある。

神に似せて創造された人間を分析してみれば、それは「心情的存在」だ。もし、それを認めるなら神も「心情的な存在」に違いないと論理を展開させていく。

その次に、大切な観点は「喜び」そのものの分析である。「創造原理」の「第三節 創造目的 (二)神の喜びのための善の対象」にある次の一文がそれである。

「喜びは独自的に生ずるものではない。」

これである。人間において「喜びは独自的に生ずるものではない」。そして、「喜びは独自的に生ずるものではない、神においても!」との主張をもとにして、論を進めていくのである。
「原理講論」であらわされている「統一原理」は驚くべき論理体系を備えている、と自分は思う。

「総序」の冒頭の文は、単なる導入の一文ではない。一番大切なことを語っている。その人間観を前提にしてくれないと後の論理展開が虚しいものになってくる。

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