誰でもない私へ
サロンに入って半年が経つ頃から、静香の足は少しずつ遠のいていた。
配信を見る日と、見ない日が出てきた。
特に理由があって見ないわけじゃない。
疲れていたわけでも、忙しかったわけでもない。
ただ、パソコンを開く手が動かなかった。
ある夜、配信の通知が来た。
指が止まった。再生ボタンの上で、しばらく動かなかった。
開かずに置いた。置いたあとに、罪悪感が一瞬だけ来た。
それからすぐに消えた。
配信を見た日も、以前とは少し違った。
碧の言葉は相変わらず丁寧で、穏やかだった。
言っていることは良いと思った。でも気持ちが盛り上がらない。
ノートを開くこともなくなった。
何が違うのか、静香には言葉にできなかった。
言葉なのか、言っている人なのか。
それとも自分が変わったのか。
職場での静香は、半年前より少し変わっていた。
仕事が前より早く片付くようになった。
ミスが減った。
誰かに指摘される前に気づけることが増えた。
自分でも分かった。
何かを目指しているからではなかった。
ただ、今やっていることに集中していた。
比べる相手が、いつの間にかいなくなっていた。
松田との昼は、以前より風通しが良かった。
サロンの話は出なかった。
お互いに触れなかった。
でも以前の緊張はなかった。
たまに松田が笑うと、静香も笑った。
それだけだった。
ある夜、静香は新しいエプサムソルトを試した。
ドラッグストアで見かけて、なんとなく買っていたものだった。
袋を開けると、ハーブの香りが広がった。
お湯に溶かして、湯船に浸かった。
香りが良かった。それだけで、少し肩から力が抜けた。
ぼんやりと天井を見ていた。
何も考えていなかった。考えようとしていなかった。
そのとき、母の声が浮かんだ。
三者面談の帰り道、母が言っていた。
「普通の高校が一番いいわよ、変に背伸びしなくていいの」
優しい声だった。心配してくれていた。
普通の高校。
普通って、何だろう。
その問いが浮かんで、静香は答えを探さなかった。
探す気にもならなかった。
ただ、湯船の中でその問いを持ったまま、しばらくいた。
普通って、誰のだろう。
答えは来なかった。
でも今回は、答えが来ないことが怖くなかった。
それどころか、何かが溶けていくような感覚があった。
長い間、体のどこかに張り付いていたものが、お湯の中にほどけていくような。
普通でなければ嫌われると思っていた。
でも普通って何か、誰も知らなかったのかもしれない。
ないものを、ずっと追いかけてきた。
その考えが浮かんだとき、静香は泣かなかった。
怒りも来なかった。ただ、全身の力がすっと抜けた。
湯船の中で、碧の言葉が浮かんだ。
比べる声が、静かだった。
自分の声みたいなものが、湯気の向こうで小さく鳴った。
ノートの言葉が、頭ではなく、体のほうに落ちていった。
お風呂から上がって、パジャマに着替えた。
ソファに座って、スマホを開いた。
サロンのアプリを開いて、退会ボタンを探した。
もう、やめよう。
ただそれだけだった。
怒りはないし、恨みもなかった。
碧への感謝があるかと言われれば、あった気もした。
でもそれより先に、もういいかな、という感覚があった。
ボタンを押した。確認画面が出た。もう一度押した。
退会しました、という表示が出た。
「選ばれた人」という言葉が、遠くなった。
静香はスマホを置いた。呼吸が、少し深くなった。
その夜遅く、碧のスマホに通知が来た。
水野静香が退会しました。
碧はその通知を見た。一瞬、胸がちくりとした。
静香の過去ログを開きかけた。やめた。
スマホのメモを開いた。
「手放した人の変化」
タイトルだけ打った。本文は空欄のままだった。
ワインを取りに行った。
エピローグ 揺れない日々
昼休み、松田が隣に座った。
窓から光が入っていた。机の上に影ができていた。
松田が窓の外を見た。何かを言おうとして、やめた。
また外を見た。
その一瞬を、静香は見ていた。
何だろう、と思った。
聞かなかった。
でも、胸のあたりが少しだけ温かくなった。
午後、デスクに戻ってスマホを確認した。
通知欄の名前に、見覚えがなかった。
開くと、碧からだった。
「静香さん、ご無沙汰しています。サロンを卒業された方の声を集めたコンテンツを考えていて、
もしよければお話を聞かせていただけませんか。静香さんの言葉は、きっと誰かの力になると思います」
静香はそのメッセージを読んだ。
碧の文章は相変わらず丁寧で、温かかった。
そのままスマホをカバンに戻した。
帰り道、静香はイヤホンをしないで歩いた。
街の音が聞こえた。
風の音、誰かの話し声、遠くの踏切。
特別なことは何もなかった。
何者でもない午後が、静かに続いていた。
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