一時期僕は悟りの探究者でした、今は違うと言えます。

その名残でYoutubeで悟り関係のおすすめが今でも上がってきます。

動画のタイトルやサムネイル見ていると最近の傾向が何となくわかった気になってきますね。

 

僕が見ている時はノンデュアリティ(非二元)が流行っていた気がします。

今は右脳とか縄文みたいですね。

 

当時の僕は、ノンデュアリティのスピーカの方がお話しされているのを聞いていて、何か違和感を感じていて、のめり込むことはなかったのですが、今考えると思考がなくなったとのお話しを思考の中で話している、と感じたからだと思います。

 

最近右脳と縄文のことをお話しされている動画を観てみました、あと思考が止まるとか。

そこで何本か視聴し率直に感じたことは、ただの新しい宗教の形だなと思いました。

右脳の声が神様(ご神託)で縄文が天国で、表現の仕方が現代風だなと。

そう思っただけで否定も肯定もするつもりはないのですが、信じている方の勧め方にはものすごく違和感を感じました。

イエス・キリストの教えは素晴らしいが、キリスト教は信じることが出来ないで伝わりますかね。

 

で題名の話につながるのですが、宗教でなくても自分が信じているものを否定されたと感じた時、信じていない人ほど気分を害してしまいます。

信じたいものが揺らぐことを受け入れられないからです。

 

外側(現象)で起こることは、すべて私を知る機会です。

すべては私から起こっています、その私から必要なものを選択していれば、信じる信じないからも自由になっていきます。

 

思考がないと考えている私、私はいないと考えている私を知っていく。

気づきを握ってしまうと思考停止してしまいます。

知らない私を知っていく。

面白いと僕は考えています。