今回、漠然と函館に行ってとくに理由なく行ってきましたが、函館である人物の事が気になりました。ある人物とは新撰組の土方歳三。土方さんの軌跡を辿ってみたいと函館に来て見て感じました。


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箱館戦争とは明治2年に行われた戦争で、五稜郭が兎角中心になりがちでしたが、この戦いは箱館という港町をバックボ-ンに榎本武揚を中心として民主的に投票といった方法で幹部を決めそして明治政府に戦いを挑んだ戊辰戦争最後の戦いでした。


そんな中、土方歳三は陸軍奉行並(今でいう、大臣の次に偉い事務次官といったところでしょうか。


実際に土方さんは戦争は強かった。


負け続きだった蝦夷共和国の中でも1,2を争うくらい強かったのではないでしょうか。


前回書き込みした、五稜郭は実際は作ったときから、予算がまったく無く途中の要塞でした。


籠城(立てこもり)には適してないお城ともいえます。


そんな中、二股口では勝っていた土方さんですが、さすがに箱館の町中を新政府軍が占領してしまいましたら土方さんでも身体が二つあるわけではないので、さすがにもう終わりか。


といった気持ちだったかなと。


籠城していた幹部はみな生き残ったのに、土方さんだけは、武士の美学というものを持っていたのだと思います。


話は少し反れます。


もともと、武蔵国・三多摩(日野・八王子近辺)は農民とはいえ江戸幕府は自分らが守るんだといった気概があった地域です。

そうした中、近藤勇率いる試衛館は木刀の試合よりも真剣に重きを置いた剣。


その試衛館の裏方として土方さんが守っていました。


試衛館から新撰組に変わりそして幕末から明治に移り変わる中土方さんは宇都宮、会津、仙台、そして箱館に転戦しつつ北上してきました。


自分の考えなので実際に感じていたかは分かりませんが、土方さんの中には武士という事を強く意識していたのではないかと感じています。


そんな土方さんは多分、考えが違うし自分の考えを押し付けるつもりもなかったのでしょう。


ほとんど自殺のような形で、一本木を突破しそして箱館の明治政府の官軍参謀部まで切り込み、武士としての意地をみせたかったのではと思います。

もしかすると、自分の手で切り開こうとも思っていたのではと思いました。



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いつも、写真を撮っている中でどうしても撮れない写真があります。


墓石、供養塔です。


たたりが怖いのとお墓は本来撮りたくないなと思ってしまいます。


今回も撮れませんでしたが、供養塔の前で手を合わせてきました。


歴史の中の一部分。


土方さんは新撰組にいるときよりも、箱館のほうが光ってたと思います。


この前のブログでどうしても中途半端な内容だったので今回書き込みたいなと思って書いてみました。