対談:小沢健二 x 小倉エージ(『レコード・コレクターズ』1994年) | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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 当ブログでは、何度か音楽雑誌のバックナンバーについて書いたことがあります。たとえばこのリンク先の記事なんかは『レコード・コレクターズ』の1988年3月号(特集=ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)をトピックに選びました。
 今日とりあげるのは、同じ『レココレ』誌の1994年4月号です。特集名は「ザ・バンドとウッドストック伝説」。その特集用に設けられた小沢健二と小倉エージの対談のみにフォーカスします。

 対談の日付は同年の2月26日。場所は赤坂の東芝EMIと記されています。
 『レココレ』は毎月15日発売で、この4月号は3月15日に店頭に並んだことになります。小沢健二は3月9日にスチャダラパーとのシングル「今夜はブギー・バック」をリリースしたばかり。8月31日にセカンド・アルバム『LIFE』がリリースされる約半年前です。
 などといったデータをネットで確認する必要があるくらいに、じつは私、小沢健二に関して詳しくないんです。彼のファースト・アルバム『犬は吠えるがキャラバンは進む』は良いと思っていたし、というかフリッパーズ・ギターも聴いていたのですが、人生で多大な影響を受けたと言えるほどではありません。でも自分と同世代の表現者として、視野のどこかで気にしている存在です。
 そんなヌルい認識の私でも、1990年代の中盤に小沢健二が特別なポップ・アイコンであった印象を持っています。『レココレ』1994年4月号が発売されたのは、彼が一般的なブレイク・スルーをはたす前夜の明け方、といったタイミングではなかったでしょうか。

 対する小倉エージは1994年4月号の時点で47歳と、現在の私より9歳も若かったことに驚いてしまいますが、ロックを中心とした音楽メディアでは大ベテランの一人でした。私は十代の終わりごろからボブ・ディランに傾倒したので、この人や北中正和の文章は読んでいました。
 ただし、彼が中村とうようらと創刊に携わった『ミュージック・マガジン』の誌面作りには、若き日の私と感覚的に合わない部分もあったんです。音楽を探すうえで参考になるところも多かったとはいえ、世代ではなく年齢的に、ロックについて読みたいことが書いてある雑誌ではなかった(その点で、とくに1980年代の私は絵に描いたような『ロッキング・オン』の読者でした)。
 しかし、だからこそ小沢健二と小倉エージの対談というカードには興味をそそられたし、なぜか腕まくりして読んでみる気になったのでした。どちらかのファンというわけでもなかったので、単なる野次馬みたいなものですね。

 対談のテーマはウッドストック・サウンド。このウッドストック「・サウンド」というカテゴリーに、私は一つの引っかかりを感じました。
 当時の私が「ウッドストック」の言葉から真っ先に思い浮かべたのは、あの『ウッドストック・フェスティヴァル』だったんです。まあ、特集にザ・バンドの名前が書かれてあるので、「そういえばビッグ・ピンクがウッドストックにあったもんな」という程度には飲み込めましたが。
 だけどトッド・ラングレンがエンジニアを務めていたベアズヴィル・スタジオとか、そこで作られたボビー・チャールズやジェシ・ウィンチェスターの素晴らしいアルバムとか、ハッピー&アーティ・トラウムとか、それらを繋げる音楽性のキーワードとしての「ウッドストック」はほとんど気にかけたことがありませんでした。頭に入っていたのは、ジミ・ヘンドリクスやジョー・コッカーやスライ&ザ・ファミリーストーンが熱演を繰り広げた『ウッドストック・フェスティヴァル』のことだけ。

 この号で特集されている「ウッドストック」は、要するに1970年代のアメリカン・ロックの一派なのです。その流れから生まれたオーガニックなタッチのレコードを、同時代に小倉エージが輸入盤紹介のページで推薦し、そうした盤を店で流すロック喫茶が渋谷にあって、そこに鈴木慶一や山下達郎らが集まっていて、という見取り図を、1994年に26歳だった私は把握していませんでした。いや、もしかしたら聞き及んではいたかもしれないけれど、やはり「気にかけた」ことがなかったのです。
 さあ、そんなふうにウッドストック・サウンドを日本のアメリカン・ロック・ファンの一部に浸透させた小倉エージと対談するのが、新世代のレコード・マニアとしても名を馳せていた小沢健二です。私が多少の見取り図を手にしている2024年現在のほうが、当時よりも読むのに若干の緊張を催させます。

 記事はまず、小倉エージが対談の趣旨を小沢健二に軽く説明する形で始まります。いわく、最近(1994年)ザ・バンドなどの渋いアメリカン・ロックがクラブに通う若者のあいだで人気を博しているらしい。たぶんリアルタイムでそれらのロックを好んできたオヤジたちとは、受け止める感覚が違っていると思う。だとしたら、1960年代や1970年代の音楽を新しいセンスで吸収していたフリッパーズ・ギターの元メンバーと、あえて世代間のギャップが浮かび上がるような話ができたら面白いのではないか。
 このイントロダクションに対する小沢健二の最初のコメントが痛快です。「浅はかにそういう古い音楽を聞いてるヤツが『コレクターズ』に呼びつけられたって感じですが(笑)」。
 前述したように私は小沢健二の信奉者ではなかったのだけれど、この返しの低姿勢ながらも狙いの確かな先制パンチに拍手を送りました。自嘲的な言い回しで相手を油断させ、なおかつウィットで油断ならないクレヴァーさを示す。まずは早々に一本取っておいた、というところでしょう。
 
 この種の企画は、年長者が若輩者を取り締まるという構図が垣間見える場合があります。もちろん、小倉エージにも編集部にもそんな意図はなかったはずだし、読むと互いをリスペクトしあったうえでギャップを確認しているのが伝わります。と同時に、年長者が若者の未知の事柄を教える口調は、30年後の現在ほど遠慮がちではありません。小倉エージが自らも影響を与えた1970年代渋谷のロック喫茶について語るくだりでの、「そういうのって、まったく知らないわけでしょう」は、今だったら年寄りのマウンティングだと若者に嫌われそうです。
 その言葉への小沢健二の答えは、「知らないです。そういう部分に関しては何も語れることがありません(笑)」。さらに続けて、「もちろん、情報だらけの世の中を生き抜いてますから、感触としては、そういう文化史的な位置も何となく見当がついてたりとかはするけれど、ほぼそういうこととは関係なく、ダイレクトに曲に飛び込みますので」。
 彼のこういう認識が、私には同世代として通じるところでした。1968年に生まれて、中学に入る頃には1970年代も終わっていて、それ以前のロックは後から追うしかなくて、体験面では先達に追いつかないし、その不足は引き受けるしかない。でも情報だらけの世の中(ちなみに、これはインターネット時代よりも前の対談)に生きていれば、体験できなかった部分への見当はつくし、文化史のセンスだってないわけじゃない。それに、今の若者は文化史的な脈絡に縛られずに、クラブのフロアで曲自体に反応していますよ、ということです。

 しかしながら、私自身はこの小沢健二のコメントに当てはまらない若者でもありました。クラブでザ・バンドやリトル・フィートの隠れた名曲を耳にしてレコードを探しに行ったことが、全然ないんです。どちらかというと、いやハッキリと、ディスク・ガイドを片手に中古レコード屋をまわって、ライナー・ノーツを読み込んでミュージシャンのプロフィールを知り、ディスコグラフィーをどうにか入手して、伝記本とかも読んだりして、知識の根を張らせながら聴く範囲を広げていく、そんな若者でした。つまり、私はクラブ・キッズよりも小倉エージの側、脈絡陣営の端っこに立っていたのです。
 1990年代は、その陣営の旗色が悪くなっていった時期でした。対談中に小沢健二が言う、「たまたま聴いた曲がすごくいいムードを持ってて、ドラムの音がすごくデカかったとか、ベースがすごくブリブリしてたとか、そういう捉え方」で中古レコード屋を訪れる人たちが、私より少し下の世代に増えました。それはとても清々しい聴きかたであって、ある意味では理想的とも言える感性だと当時から羨ましく思っていたのですが、いっぽうで当時の私にはケムたい連中だったことも否定できません。音楽のことを喋っていても、記号的な話では合うけど、文脈的な話では合わねえな、と呆れたりもしました。

 とはいえ、私もザ・バンドで一番好きだったのは演奏のグルーヴだったし、ここでの小沢健二と同じようにウッドストック・サウンドと『ウッドストック・フェスティヴァル』を混同しがちでもあったので、結局は大同小異だったのです。ただ私は、「ベースの音がすごくブリブリして」気持ちいいから、この音楽が好きだ、ということを素直に(もしくは無邪気に)語る回路を持っていませんでした。だからクラブ経由のレコード・マニアを鬱陶しがっていたのです。
 当時の私は鼻をつまんで飯を食っていたようなものだったとも言えますが、実際はそこまで理屈に頼っていたのでもなく、ちょうどこの対談で小倉エージが投げかける質問を意識して音楽を聴いていました。「何にトキメくの?それが問題だよ」。
 途中、小倉エージは「小沢くんみたいな聞き方のほうが自然でいいと思いますけどね」と述べています。小沢健二も、「ずっと聞いてきているオールド・ロック・ファンの人たちから見たら本当に浅はかなんだろうけど」と、冒頭の先制パンチを和らげたトーンで繰り返しており、どちらも自分の感性を客観的に見て、相手の感性を理解しようとする姿勢は保たれています。そうやって互いのリスペクトが保たれているから、「未だに、カタログ的な順番なんかも覚えようとしなくて、それよりも、あのジャケットのアルバムのこの辺にいい曲が入ってる、なんて思ってる」と自嘲を混ぜて話す小沢健二に、では「何にトキメくの?それが問題だよ」の質問が投げかけられたのです。
 「それが問題だよ」と言われても、「それ」は音楽のリスナーにとって簡単に説明できるものではありません。本人が感じていれば済むことでもある。でも、たとえ言語化が難しいとしても、「それ」と意識して向き合い続けることで、音楽がリスナーの内側で根を張るかもしれない。点が線になるかもしれない。この質問は、小倉エージが小沢健二のみならず当時の若いロック・ファンの多くに訊きたいことだったのでしょう。

 小沢健二の答えは、どうだったか。
 「よく女の子なんかで、レコード全然持ってないのに、やたら音楽が好きな人とかいるじゃないですか。そういう人って、きっとそういう直接的な匂いみたいなのにすごく敏感なんだろうなって思うんですよね。そういう人たちが、レゲエの後にキャプテン・ビーフハートがかかっても、わあっと盛り上がる。だから、その人たちの中では、ドラムやベースの音がデカいってことすら存在してなくて。匂いだけで成り立ってる世界があるんだな、といつも思ってます」。
 ミュージシャンである彼には、「年の差」対談のサイズに収まる明確な答えが他に思いつかなかったのかもしれません。しかし私はこの答えを読んで、本対談での小沢健二が、彼自身の考え以上に彼のファン層の若者の声を念頭において発言していたのではないかと思いました。いわば、レコード・マニアの新人類(1994年にも死語でしたが)の声です。クラブでDJをやってる子たち、彼らがプレイしていた音楽を探して中古盤店のドアを開ける女の子、レコード・バッグを提げて渋谷の街を闊歩していたオシャレな男の子・・・。『レココレ』陣営に近かった私には縁遠い光景でしたが、小沢健二がこの対談に「呼びつけられた(笑)」のは、彼らを代弁する役割が期待されたからでしょう。
 この対談で小沢健二が繰り返す「浅はかさ」の言葉には、その期待を自嘲でかわしつつ、新しい感性のあり方の切り口を示すために弱い面を避けて通らない姿勢が感じられます。なにせ「今夜はブギー・バック」がリリースされた直後の小沢健二です。そしてこの『レココレ』の他のページには、たとえば『黄金の七人』のサントラが若者に人気がある(が、何がそんなにアピールするのかイマイチわからない)という話が載っていたり、中古レコード屋の広告には「近頃DJたちが70年代のファンキーなロックを探しに来る(が、昔からこのジャンルをコツコツ聴いてきたお客様を大事にしたい)」といった文が書かれているのです。そんな1994年の春でした。

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