文庫版『ロックミュージック進化論』(渋谷陽一・著 新潮文庫 1990) | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

ロックを中心とした昔話、新しいアフロ・ポップ、クラシックやジャズやアイドルのことなどを書きます。

 今回の記事では、1990年10月に新潮文庫から復刊された渋谷陽一の著書『ロックミュージック進化論』のことを、日本放送出版協会から<NHK音楽シリーズ>の一冊として出版された元のヴァージョン(1980年2月初版)のことも織り交ぜて書いてみたいと思います。
 文庫版では本文の内容が少し改訂され、巻末の対談パートを増やしての復刊でした。

 1980年に出た最初のNHKの版を、私は大学に入った1986年に買いました。店は京都の河原町にあった丸善だったと記憶しています。初版から6年が過ぎていたのですが、自分がロック・ヒストリーへの積極的な関心を膨らませていたこともあり、ビートルズ、ブルース・ロック、サイケデリック・ロック、プログレッシヴ・ロック、ハード・ロック、グラム・ロックそしてパンク・ロックと移っていったスタイルの変化の意味を、著者の視点で論じた文章を熟読したものです。
 長いあいだ、それは私のロック観の基盤となっていました。自分の考え方が当時と同じではなくなった今でも、基盤へと導いてくれた一冊であり続けています。
 文庫版も1990年の秋に買いました。店頭で見かけた際には「以前の版を持ってるから必要ないな」と思ってしまったのだけど、手に取ってページをめくると、ほぼ半分に新たな対談パートが組まれていました。NHK版での山川健一の対談を席を改めての第二弾と、ブラック・ミュージックをめぐるピーター・バラカンとの対談です。単なる復刊に終わらせていません。私もそれに釣られて文庫版を購入しました。
 
 もとの『ロックミュージック進化論』に何が書かれてあったのか。
 私なりに要約すると、ロックの歌詞が鋭い批評性を得たことで音楽スタイルを変化させていった必然性の歴史です。この本ではボブ・ディランに単独の章が割かれていませんが、おおまかに言えば彼の影響で文学性やメッセージ性の高い言葉に目覚めたソングライターたちが、その意識の変化にふさわしい音をクリエイトしていった、という主旨が伝わります。
 巻頭でビートルズ~ジョン・レノンのヒストリー(初版時はジョンが亡くなる10ヶ月前)を、著者の個人的な体験を挿みつつ綴った3章ぶんのパートは、そうしたロックの批評性のプロセスを集約させていて秀逸です。「日本ではビートルズの人気は今一歩であった」(NHK版 p.22)という一文は、後に続く「解散してしばらくたってから日本では第二次ビートルズ・ブームのようなものが起こった。ようやくその時点で、ビートルズを自分達の音として感じれる世代が育ってきたのだ」とともに、1986年に18歳でこれを読んだ私には意外でした。ビートルズのアルバムを集めている最中に、その文を読んでおいてよかったと思います。
 
 「60年代のロック」の章でのドアーズとジャニス・ジョプリンは歌詞とアーティストの資質を語るのに適しているし、「ブルース・ロック」の章での、ブルースを「対象化」する「批評性」という言葉も本書のテーマを際立たせるものです。
 「プログレッシヴ・ロック」の章では、歌詞の偏重が気になります。1970年代の『ロッキング・オン』を読んでみるとプログレの歌詞が頻繁に論じられていて、こういう空気だったのかと納得できるのだけど、プログレを思想面で受け止める捉え方は私には世代と音楽観のずれを感じざるを得ません。
 ただし、Stairway To Heavenの歌詞を軸とした「レッド・ツェッペリン」の章は、これもまた70年代の『ロッキング・オン』的な解釈であるとはいえ、それが音楽的な変化の言及と噛み合っており、渋谷陽一によるレッド・ツェッペリン・ストーリーとして優れた文章だと思います。ツェッペリン論とするには不足が多いし、いにしえの飛行船を眺めてるような気分にもさせるのですが、とにかく知的な熱量が高くて読ませます。事実の答え合わせに終始しない、こういう解釈が今の時代にもっとあったほうがいいと思います。

 と、ここで1990年の新潮文庫版に話が飛びます。各章はほとんど手が加えられておらず、クイーンやキッスやボストンなどをまとめた「ロックの今」の章が「今」ではなくなったので省かれているのと、「ビートルズ」の章で、ジョン・レノンの死を受けて一部の語尾を過去形に直したため、元の切れ味がやや鈍ったのは残念です。が、それもやむを得ないでしょう。
 この文庫版で興味深いのは、山川健一との再度の対談です。NHK版から10年の時を経て、二人のロック観が微妙に道を分かれていったことが読みとれます。それはNHK版でも皆無ではなかったのですが、あちらは意見の相違が対談の流れを太くしていました。海外のロックに注目してきた日本の状況が枝分かれする前だったからでしょう。
 文庫版の対談で心に残ったのは、『ロックミュージック進化論』というタイトルをめぐる次のやりとりです。


渋谷「今のおれなら絶対つけないタイトルだけれども、昔のおれはきっとそういう気分だったのだろうなという。」
山川「昔の渋谷陽一だけではなくて、昔のおれ達の気分なんだよ、これって。(中略)ただ、今そう思えるかというと必ずしもそうは思えないというのがすごく正直な気持ちなんだよね。」


 たしかに『ロックミュージック進化論』は勇み足なタイトルです。1980年に出版されたときも批判されたそうですが、それはおそらく音楽や表現に対して「進化」という尺度を持ち出すのはナンセンスだ、という声ではなかったでしょうか。それが1990年ともなると、はたしてロックは「進化」していっているのか?との疑問のほうが浮かびあがっています。ちなみに、この文庫本が発売されたのはニルヴァーナの『ネヴァーマインド』がリリースされる1年前です。『ロッキング・オン』誌上ではストーンズ・ローゼズが読者の人気を誇っていましたが、1989年のファースト・アルバム『石と薔薇』のレヴューで、渋谷陽一は読者の熱狂に距離を置いた評を寄せていました。

 文庫版での山川健一との再対談で、意見の相違がNHK版とは異なる温度で目立ってくるのは、ローリング・ストーンズについて語り合う部分からです。ストーンズが前年にリリースした『スティール・ホイールズ』の感想を渋谷に求められた山川は、「まだそんな深いアルバムではないと思うけれども、新しいアイディアを獲得したアルバムだというふうに思う」と、抑えたトーンで話し出します。
 それに対して渋谷は『スティール・ホイールズ』に「すごく停滞した印象を受けた」と失望を述べたうえで、「まあいいかみたいな、ストーンズがやっているんだし、手を抜いていないし、元気だし」と、弱めの肯定も付け加えています。あのアルバムは初来日のお祭りの神輿みたいな作品でもあって、私などは盛り上がったのですが、冷静に聴くと渋谷陽一の言う「手を抜いていないし、元気だし」という評価の温度にも頷けます。

 対談が面白くなるのは、そこからです。山川は『スティール・ホイールズ』には表現としての深みがあって、そこに感激するのだと、トーンを濃くして主張します。「誰も一杯のジャック・ダニエルズに進化を求めたりしないでしょう。酒や煙草は、昨日と変わらずおいしければいい。音楽も同じだよ」。と、いかにもストーンズ・ファンが言いそうなことを口走ったところに、渋谷が攻めこみます。「そういうニヒリズムというのはよくないとおれは思うよ、すごく」。
 山川は「いや、ニヒリズムじゃないんだよ。そうじゃなくてさ。音楽がわかってきたというか、最近。音楽は進化なんてしない。ただ、純粋になっていくんだよ」と、自身の感性の成熟ということを盾にして守りの体勢に入ります。先に引用した山川の、「(
『~進化論』というタイトルは)昔の渋谷陽一だけではなくて、昔のおれ達の気分なんだよ」「ただ、今そう思えるかというと必ずしもそうは思えないというのがすごく正直な気持ちなんだよね」はこれを補った発言でもあります。それを渋谷が「おれはやはり、そういうのはニヒリズムだと思うんだよね」とたしなめます。

 二人のこの食い違いは、何を基準としているかの違いだとも言えます。山川の意見は作品論であり作家論です。そこにロックの「進化」ではなく深化や純化を見いだしている。彼は言います。「どこまでも表現というものが進化していくんだという仮説のほうこそ、一種のニヒリズムなんだよ」。

 渋谷は「そんなことはないよ。それが暗い楽観主義というものなんだよ」と反論します。彼はポップ・ミュージック全体を視野において、過去より現在のロックのほうが素晴らしいと言える希望を持ち続けることが重要なのだと語ります。『スティール・ホイールズ』は渋谷陽一にそれを感じさせなかったのでした。
 山川は「一個のバンドを愛するとか一個の音楽を愛する」ことは、渋谷の言うようなマクロな視点だけでは表せないんだと主張し、渋谷は「そうだろうね」と相槌を打ちます。私はマクロな視点よりも作品と作家への個別の関心のほうが大きい人間なので、この「そうだろうね」を1990年に読んだときには「訳知り顔でスカしやがって」と苛立ちました。しかし、今読み返してみると、「そうだろうね」は冷たく突き離すようでいて奥行きがあります。

 じつは1980年にNHK版の「パンク・ロック」の章を、渋谷陽一はこんなふうに結んでいました。「ある意味で、パンク・ロックはロックそのものの終わりを宣告したムーヴメントなのかもしれない。進化に終わりはないはずだが」(p.156)。この「パンク・ロック=ロックの終わりを宣告」は他の識者が書いていた例もあり、一種の当時の共通認識でもあったのでしょう。文庫版での山川健一との対談にもっとダイレクトに繋がるのは、同じNHK版の「ロックの今」の章(文庫版では割愛)に書かれていた、次の二つの文です。「ある部分で僕はすでにロックの当事者ではなくなってきているのだろう」「ロックの未来は、果たして明るいのだろうかそれとも暗いのだろうか。いや、そうした言いかたこそ客観主義的なのだろう」。
 NHK版が書かれた1980年の時点で、渋谷陽一は80年代以降のロックの先行きだけでなく、自身の(おそらく)年齢からくるロックとの距離感にも自覚的でした。つまり、『ロックミュージック進化論』のタイトルは、渋谷流に言うなら、最初から「暗い楽観主義」を背負っていたのです。中身の文章も、ロック・ヒストリーの成果を誇らしげに掲げるだけではない苦みを滲ませています。それでも「一杯のジャック・ダニエルズに進化を求めたりしない」な気分を肯定せず、むしろその言い回しを「ニヒリズムだと思う」と否定し、かつて批判されたことのある「進化論」をもう一度引き受けて看板を外さないのが渋谷陽一らしいです。
 
 自分の感性が成熟するにつれて「音楽がわかってきた」と、進化より深化を重んずる山川健一の実感は間違っていません。私にも思い当たるし、長く音楽を聴き続けていれば、そういう心境にも近づきます。それゆえに渋谷陽一も「そうだろうね」と理解を示したのです。理解を示しながらも、それはポップ・ミュージックに関するかぎりはニヒリズムだと否定しています。
 山川健一もこれで引き下がってはいません。彼は小説家であり、作品が時代の流れや大衆の願望よりも作家個人の自発的な表現意志から生み出されることを、身をもって知っているのです。その点で、彼の中ではファイン・アート(芸術)とポップ・カルチャーの間に線引きはありません。いっぽうの渋谷陽一は、時代や大衆に「迎合」すること、売れるものを生み出すことがポップ・カルチャーであり、たとえばゴッホの作品のように生前売れなかった表現は「すぐれたファイン・アート」なのだと明言します。
 山川はこれに抵抗し、『ロッキング・オン』が同人誌レヴェルから始まって影響力を持つ商業誌となったことを引き合いに出し、それが本当に「進化」と言えるのか?と疑問を提示します。それに対して渋谷は、山川も『少年ジャンプ』なんかに負けないくらい売れるようにならなきゃダメだ、天から才能を授かってるんだから、と持ち上げ戦術で落とそうとします。山川は「ありがとう」と矛を下げつつも、「でもおれは『少年ジャンプ』なんて嫌いなんだよ」「ロックってそういうものじゃないとおれは思うんだよ」「音楽を愛する気持ちはそういうものじゃないんじゃないかと思うな」と、なおも釈然としていません。そんな山川から最後のパンチ。
 「ロックの流れを追いかけることというか、全体的にマスでとらえようとすることの中で、何かを聞いたときに感動ってある?」。要するに、近頃のオマエはやたらと客観的な物言いばかりしてるが、心の底からロックに感動することは今でもあるのかよ?という、気の置けない友人なればこそ言える問いかけです。渋谷の答えは「あるよ。それがなくなっちゃやっていけないよな」ですが、10年前のNHK版で「僕はすでにロックの当事者ではなくなってきているのだろう」と書いていた彼にとって、これにはちょっと面倒くさい感じで動揺させられたかもしれません。

 1990年の秋にこの部分を読んだ私は、山川健一のこの問いかけを、ディスカッションの場にふさわしいものではないなと呆れました。
 当時の私は、90年代の始まりにあたって、ストーンズ・ローゼズを筆頭とするUKロックの新世代やハウスやヒップホップにワクワクして毎日を過ごす若者でした。作品論も作家論も自分には重要だったけど、それを超えてポップ・ミュージックのシーンで何かが起きている興奮と期待もまた大きかったのです(ハウスに作品論は似合いませんでした)。だから、広い視野で見通せる渋谷陽一と、趣味性に凝り固まった山川健一、という図式でこの対談を読んだと思います。
 あれから30年以上たった2023年になって読み返すと、ここでの山川にシンパシーをおぼえる自分がいます。55歳の今の私は、アフロ・ポップ以外のポップ・ミュージックの最新形に鈍い反応しか示せなくなりました。ホントに、新しいロックを聴いても「ああ、そうなのか」としか感じられなくなっています。新しいポップ・ミュージックで楽しくて仕方ないのはアフロ・ポップだけ。感性の空きスペースでクラシック音楽をじっくり聴いて感銘を受けています。まさに「ニヒリズム」でポップ・ミュージックから離れ、「ファイン・アート」を鑑賞するオヤジです。

 しかし、ここでポップ・カルチャーの有理を譲らない渋谷陽一に背を向けきれない私がいるのも事実なのです。これはなにも彼にかぎった話ではなく、音楽ライターやブロガーがポップ・カルチャーの素晴らしさを力説している文章を読むと、自分とは違う人たちだと受け止める反面、なるほどなあと納得させられることが多いです。そんなときに思い出すのが、本書でのこの対談だったりします。
 私はポップ・ミュージックの「ミュージック」に強く惹かれるタイプで、だけど「ポップ・ミュージック」を「ポップ」と「ミュージック」に分けたら意味をなさないとも思っています。やっぱり「ポップ」であるからこその「ポップ・ミュージック」です。でも、もうそっちへの感度が最近とみに落ちてきています。もともと「ミュージック」志向だったのでしょうが、『ロックミュージック進化論』を喜んで読んでいた頃には気づいていませんでした。
 この文庫版『ロックミュージック進化論』の対談で読めるポップ・ミュージック/ポップ・カルチャーについての議論には、これが1990年の本に書かれてあったのかと驚かされ、これをさして重要なことだと考えずに読み流していた自分の姿を思い出させました。あの頃、今みたいな時代がやってきて今みたいな自分になるとは全く予想できませんでした。
 
 対談の締めでは、前述したように「今でも心から感動することあるのかよ?」と言いたげな山川に、渋谷が「あるよ。それがなくなっちゃやっていけないよな」と返し、山川が「あるんだったらいいんだけれども、何か逸脱していっちゃっているような気がして寂しいというところはあるな」と、懐を開いて本音を見せます。渋谷は「そんなことはないよ」。これも取り繕った返答ではなく、本当にそうなのでしょう。まあ、せっかく自分がリードしていた議論を情で崩された格好になって、不承不承というニュアンスは窺えますが。
 締めに置かれた言葉は、山川の「あ、まさか怒ったわけじゃないだろうな?対談なんて終わりにしてさ、たまには飲みに行こうぜ」。山川健一らしい落としどころです。ただ、これ、飲みに行ったとして、そこからまた「さっきのあの話だけどさ」と始まるんだろうな。面倒くさいけど、ちょっと羨ましいです。