パーティーの席に一人の男の姿があります。頭頂部を立てた長髪に、ナポレオンのような鼻。いかにもな遊び人なのだけど、垂れ気味の眉がやけに人懐こい。
テーブルには飲み干したグラスが並び、友達との会話が弾むごとに数が増えていく。その会話の内容といえば、「俺、次やらかしたら後がねぇし」などとゲタゲタ笑いあっている。
それを遠巻きに見ている女の子がいます。なるべく近寄らないようにしていたのだけど、夜も深まって客人もまばらになり、ソファでいびきをかいて寝ている人に毛布を持ってきてあげたところ、空っぽのテーブルに座った例の男と一瞬目が合う。と、さっきまでの下品なバカ笑いはどこへやら、彼は照れくさそうに視線をそらし、傍らにあったギターを手にしてアルペジオで静かに爪弾きだす。しゃがれた高い歌声が人気の少なくなった広間の空気を震わせる。
♪おまえが俺をどんなに傷つけたかなんて、そんな話はしたくない。もう少しだけそばにいたら、俺のハートに耳を傾けてくれるのかな・・・♪
彼を照らしているのはスポット・ライトではない。ただの室内灯の弱いあかり。なのに、なのに、彼女はその男から目を離すことができない。そこではじめて、男は顔をあげて彼女に微笑みを投げかける。ズルいっちゅうねん。
ロッド・スチュワートが1975年にリリースした『アトランティック・クロッシング』はスケコマシの傑作アルバムであります。
この場合、哀れな子羊と化すのは女性だけではありません。私はこのレコードのA面に針をのせたが最後、自分が男であるにもかかわらず、どんどんロッドの魅力に惹きこまれていきます。A面がStone Cold Soberで終わって盤をひっくり返し、B面がI Don't Want To Talk About Itで始まると、もうその思いは止まらない。どんだけでも聴くから、どんだけでも歌ってくれ。
ロッドのキャリア初期のアルバムはどれも好きです。とくにセカンドの『ガソリン・アレイ』とサードの『エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』。たぶん、好きの度合いでいうと『アトランティック・クロッシング』以上です。
それでも『アトランティック・クロッシング』は名盤です。ラストにSailingが控えているからだけではなく、ロッドがそれまでに培ってきた歌の表現力が、満を持して大西洋を渡ってイギリスからアメリカへ、そして世界へと出航してゆくダイナミズムを味わえるアルバムです。
はじめて本作を聴いたのは18歳のときでした。ちょうど『ロッド・スチュワート』(邦題)というアルバムが出た1986年。
私はロッドに関してはほぼ後追いです。「ほぼ」と書くのは、1980年のヒット曲Passionあたりをリアルタイムで知っていたからで、1984年の『カムフラージュ』なんかも洋楽のロック・スターのアルバムとして親しんでいました。ニッカ・ウィスキーのCM出演もその頃。
ヒット・チャートで知っていたロッドとは別の聞きどころがあるようだと勘づき始めたのが86年ごろ。70年代からのファンには私と異なる目線があるみたいだと、ロックに対する嗅覚をロッドにも向けました。
レンタル・レコード屋に行くと、自分がロッドに抱くイメージからそうかけ離れてはいないジャケットが目に入って、それが摩天楼のそびえ立つ街へと足を踏み入れるイラストが描かれた『アトランティック・クロッシング』のLP。
A面がFast Half、B面がSlow Halfとそれぞれ名づけられています。
しばらくはB面のSlow Halfを中心に聴いていました。スローなバラードを中心としたこの面が優れていたからです。そして、情感よりもリズムのノリで訴えてくるA面のFast Halfは、ロックを漁りだしたばかりの私には良さが掴みにくかったからです。いま気に入っているのはどちらかというとA面のほうです。
Slow Halfの歌唱、演奏、構成は特筆すべきもので、それはこうして記事を書くために聴き返してみて改めて感じ入りました。やっぱり、『アトランティック・クロッシング』の”名所”はB面に集中しています。ただ、そこにいたるまでのA面のこともなおざりにせずに、むしろそちらの素晴らしさを主張したい。
フェイセズのアルバムやそれと並行して発表してきたソロ・アルバムでも、ロッドは自由気ままに生きる若者の哀歓を自然な実在感をもってイキイキと表現していました。彼のブルージーかつドライな歌が、スコティッシュなフォークとアメリカンなR&B/ロックンロールの混ざった曲調や、緩くも武骨で野太い演奏に乗ったときの自在さは天下一品で、私もその時期の歌唱にこそロッドの真骨頂があると思います。
『アトランティック・クロッシング』では、そんなロッドの魅力がもう少しわかりやすく色付けされながらも、奔放さは失われていません。非常に好ましいお膳立てによって活力も密度を増しています。ロッドもそのお膳立てに自身のキャラクターを無理なく当てはめて溌溂と演じています。
プロデューサーはトム・ダウド。アレサ・フランクリン、オールマン・ブラザーズ・バンドなどの錚々たるアーティストの傑作を手掛けた名プロデューサーです。スティーヴ・クロッパーらのメンフィス・ソウル組、ロジャー・ホーキンスらのマッスル・ショールズ組、それにフェイセズのラスト・ツアーにも参加したジェシ・エド・デイヴィスらのL.A.組を、このアルバムのレコーディングに参加させたのもトム・ダウドの人脈と人望なのでしょう。
今回聴き返してみて感心したのは、このアルバム全体で一人の男の人物像が見事に描き出されていることです。
とくにA面。女と酒と音楽を求めてその日暮らしの生活を送る放浪者の自画像がこのFast Halfを占めます。B面のSlow Halfだけでも充分に良作ではありますが、Fast Halfでの引き締まった演奏がB面とのコントラストを成し、ストーリー・テリングとしても秀逸です。
1曲目のThree Time Loserのサビのリフレインでもあるタイトルの意味は、「どうしようもないヤツ」といったニュアンスでしょうか。裁判で3回も負けてる人、が由来なのかどうかわかりません。今だったら”しくじり先生”という便利な言い回しがあります。
とにかくこの♪アイム・ア・スリータイム・ル~~~ザ~~~♪のリフレインが抜群です。自分の愚かさを明るく笑い飛ばし、反省していない。いや、反省してるのかもしれないけれど、溢れる若さから来る自信が勝っちゃうんでしょう。そして、聴く者にそれを見ているかのような眩しさをおぼえさせます。
フェイセズのいかにもブリティッシュでゴリゴリしたロックも私の大好物ですが、このアルバムでのバックの演奏にはもっと”ロックを請け負った”仕事人たちの、達者でナチュラルな手さばきが利いています。それが全然よそよそしさに陥っていません。ちゃんと隙があって、ユーモアの温度があって、そこからファンキーさが零れてきます。
演奏の基盤となっているのもヴォーカリストとの間のそうした呼吸です。そしてこの時期のロッドがあの声で歌うと純度100パーセントのソウル・ミュージックにはならない。ヴォーカルの火力がロック的だし、バックのミュージシャンたちもそれを理解しています。
逆に、All In The Name Of Rock'N'RollやStone Cold Soberのようなリズムでグイグイと進む曲では、あえてハードな方向に行かないようにしています。ロッドもリフに乗ってR&B的なセンスで歌をはずませているのが心地よい。
こうしたロックとソウルの共有部に鮮やかに着地しているのがドビー・グレイのヒット曲をカヴァーしたDrift Awayです。アッケラカンと愚行を自嘲するA面にあって、ここでのロッドはその放浪が音楽の魅力に吸い寄せられてのものであることをポツリと告白します。この「ポツリと」の弱さがたまらない。A面の真ん中まで愚行につきあって来てこのDrift Awayを聴いてしまうと、男でも胸がキュンとします。
しかも、お涙チョウダイではなく、乾いた声でひたむきに歌う熱さをもって「ポツリと」心情を明らかにしてくるんです。私なんか、この段階で『アトランティック・クロッシング』はすべてオッケーという気にもなります。
本作より前のソロ・アルバムでは必ずボブ・ディラン関連の曲をカヴァーしています(そして、どれも出来がいい)。それがここには入っていません。
でも、じつは入っているんです。A面2曲めのAlright For An Hourの歌詞に隠れています。
「おまえが求めていたのは、全部のドアを開けてくれるような男だったのさ/スイスの銀行にでっかい口座を持っていて、おまえをワクワクさせてやるような、それだけの男さ」
これはどう見てもディランのIt Ain't Me, Babeの「おまえが間違っていても守ってくれるような、そして全部のドアを開けてくれる男/おれはそんなんじゃないんだよ」に対するユーモラスなオマージュです。曲もレゲエっぽく飄々と跳ねています。
大袈裟を承知で言うと、私はここに大西洋を横断したロッドの覚悟を聴く思いがします。アメリカでレコーディングするにあたって、今までと同じようにディランを見上げているだけではダメなんだ、一度自分の流儀でしっかりと咀嚼して対象化しておかねばならない。
まあ、実際は単なる遊びだったのでしょうが、そう勝手に解釈したくなるくらいの意気込みがアルバム全体から伝わってくるし、その意気込みが叶うように巧みに構成されているのが『アトランティック・クロッシング』であるのは確かです。
このアルバムを語るのにA面を中心に字数を割く文章も珍しいと思います。もちろん、B面は最高です。Fast HalfからSlow Halfへの完璧な切り替えの役をはたしているI Don't Want To Talk About Itも、どれほど繰り返し聴いたことか。クレイジー・ホースの原曲も探して手に入れました。
この曲と、コーダからスムーズに繋がるIt's Not The Spotlightの2曲には、音楽を愛するロッドだからこそのひたむきさと、遊びなれた者だからこそ言える恋愛の機微とが、歌うことを媒介にして、重すぎない真摯さで結びついています。なによりも、声のザラつきが寄る辺ない寂寥感を漂わせつつ、そこからほんのりと温もりが広がってくるのが心を揺さぶります。
それから、B面の最後をSailingが大々的に飾る手前に置かれたStill Love Youも忘れがたい。若干の芝居がかった感情表現も(これ以前のロッドと比べると)増してはいるのですが、それでも胸を打つ男の未練うたです。演じることとリアルな息づかいとが、これ以上やると臭くなる寸前でロックのリアルを保っています。これがSailingの前にあることも『アトランティック・クロッシング』の作りの上手さであり、男でもコマされてしまうテクニックなのです。
A面との対比で言うと、珠玉のスロー・ナンバーが続くなか、やはり真ん中にアイズリー・ブラザーズのヒット曲This Old Heart Of Mineのカヴァーが収められている点に構成の妙があります。A面でのDrift Awayがアップテンポの曲の連続にミディアムでメリハリをつけたように、B面はThis Old Heart Of Mineがスローの中にダンサブルな変化をもたらしています。
そして、これがロッド史上でも指折りの名カヴァーにして名唱。私はすべてを投げ出してこのカヴァー・ヴァージョンに抱きつきたいくらい好きです。
抑えて歌っているんですよね。もっと思い入れたっぷりに歌い上げても全然おかしくないのに、そういう方法を取っていない。それでいて一言一言に熱がこもっています。
元はモータウンですが、アレンジと演奏はメンフィス流儀のハイ・サウンド仕立てです。このアル・グリーンっぽいバッキングを得てのロッドの抑えたヴォーカルにこもる熱は、彼ならではのソウルです。弦がまた歌と演奏の塩辛さに甘さを配合していて良いし、エンディングでサックスが鳴り出すと泣いてしまいそうになります。
そして、このアルバムでもっとも知られているSailing。あまりにも有名な曲なので何か書くのもためらわれるのだけど、これがなかったらアルバム・タイトルの「大西洋横断」も台無しになってしまいます。
『アトランティック・クロッシング』から数年して、ロッドはディスコをはじめとする(いわゆる)売れ線に走ったことでフェイセズ時代からのファンを失望させました。その気持ちはよくわかります。私はロッドの売れ線曲にもそれなりの魅力を感じるのですが、評価軸をロックに限定するのならば70年代前半が一番良かったのは間違いありません。Sailingはその一番良かった頃の締めくくりとも言える位置にあって、同時に次の不評期にやや片足をかけている感も窺えます。
サザーランド・ブラザーズの原曲を聴いたとき、ロッドが意外とオリジナルの節回しを意識していることに驚きました。歌のスケールや表現力こそ違えど、基本的にはオリジナルをロッドなりにトレースしているんです。
大きな違いは、原曲が木の葉のような舟での出航のイメージであるのに対して、ロッドのヴァージョンは大きな客船を想起させること。だからロッドのSailingはロックをよく知らない人をも惹きつけるし、ある程度ロックを深く掘るようになった人には聴かれなかったりします。
しかし、ロッドのSailingも嵐の海に船を出すことに変わりはありません。愛する女性のそばに行くために危険を顧みずに旅立つ男の歌です。
その女性はどういう人だったのか。実際はブリット・エクランドというブロンド美人のボンド・ガールだったんですけど、それを言っちゃ面白くない。
ロッドが大きな客船にふさわしくスケールを雄大にして出会いを望んでいるのは、彼を知らなかった世界中の人たちです。「俺が故郷の港を旅立って嵐の海に出るのは、まだ見ぬ君に出会うためなんだ」、この決意がロッドのSailingにこめられたソウルです。不安もあっただろうし、ご破算にしてしまったフェイセズの事だって引っ掛かってはいたでしょう。でも、ロッドの歌の視線は目の前の海を見ている。たとえ聴きあきても、そこに私は感動します。
終盤は船出の時間です。ストリングスとコーラス隊をしたがえて、盛大に紙テープが飛び交います。いいぞ、ロッド、行ってこい。そのしゃがれた歌声で世界中の女を一人残らずモノにしてやれ!1975年のアルバムなのに、まるで今見送っているかのような気分で、目を細めてそう叫びたくなります。『アトランティック・クロッシング』は偉大なるバカヤローの旅立ちを祝福する喜びを今でも与えてくれるアルバムです。