ヒデキのこと。 | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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ロックを中心とした昔話、新しいアフロ・ポップ、クラシックやジャズやアイドルのことなどを書きます。

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 「今日から私のこと、西口ひろみって呼んでよ」、クラスの女子が、突然そんなことを言い出したんです。
 たしか小学校4年の休み時間か給食時間か掃除時間だったから、1977年(昭和52年)の出来事。
 どうやら彼女は『明星』だか『平凡』だかを読んで、「アナタだけに教えちゃう、新御三家を独占できるステキな名前!」みたいな記事が紹介していた、西城秀樹の”西”、野口五郎の”口”、郷ひろみの”ひろみ”を合体させた”西口ひろみ”なる名前で自分を呼べ、と宣うたのでした。

 「西城秀樹さん、死去」という、何度見ても受け入れがたいトピックを目にして、ぼんやりと思いだしたのは子供の頃のそんな記憶です。

 ものすごい人気でした。同世代の人には言うまでもないことですが、若い人に伝わりやすいように今のミュージシャンに例えようとしても、思い浮かばない。
 もちろん、ヒデキだけではなく、新御三家の人気には爆発的なものがあり、それは男性歌手のひときわ高い峰であった沢田研二にも迫るほどでした。

 私の4つ下の妹もそんなファンの一人。幼稚園に入る前からヒデキ、ヒデキと熱にうかされたように騒いでいて、テレビで歌うと釘づけになっていたし、シングルが出ると親に買ってもらって、しょっちゅう聴いていました。おかげで私もヒデキの70年代のシングルは全て知っているし、カラオケでも「ちぎれた愛」や「君よ抱かれて熱くなれ」や「薔薇の鎖」や「情熱の嵐」を歌います。
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 主演映画も観に行きました。『おれの行く道』(1975年)。
 ケンカっぱやいが正義感の強い若者のヒデキとお祖母ちゃんのハートウォーミングでコミカルな物語でした。
 お祖母ちゃん役は、なんと田中絹代。さすがにヒデキも「きったねぇな、ばあちゃんは!」(『寺内貫太郎一家』)と毒づいたりはしませんでしたが、それなりに軽いジャブの応酬はありました。
 もっとも、大した作品ではなくて、それは小学生にもなんとなく感じられました。
 でも、楽しかった。ヒデキに関しては、私はあくまで妹を間に置いてのファンで、いや、ファンと言えるかもあやしいところが多々あったけれど、目先のことを考えず熱血と正義感の赴くままに青春を謳歌している若者を演じるヒデキが眩しかったのです。
 「ちぎれた愛」は、人気ドラマ『刑事くん』のワン・エピソードのタイトルにもなりました。
 恋人の復讐のために犯罪に走る若者を演じていたのがヒデキだったんです。細かい筋書きはとっくに失念してしまったんですが、それでもラストで海辺に佇むヒデキが可哀想で、胸が張り裂けそうになったのはおぼえています。
 そうそう、こんなこともありました。
 小学校の放課後に、わが家に遊びに来た同級生たちの前で、妹所有の「ブーツをぬいで朝食を」のドーナッツ盤をかけたんです。あの曲には♪裸の胸と胸をあわせて♪なんていう小学生には刺激の強い歌詞がありまして、針が進んでその箇所に来ると、誰かが急にヴォリュームを上げて、それで女子が「イヤ~!」とわめいて大笑い。

 こうやって思い出していくと、私は自分でも意識していた以上にヒデキが好きだったのだなぁと痛感します。
 それはたぶん、あの頃『ザ・ベストテン』を欠かさず見ていた年代の人たちの大部分に共通する温度ではないでしょうか。
 私は妹ほど熱狂的なヒデキのファンではありませんでした。だけど、ヒデキの歌は子供時代のいろんな場面に流れていて、そのたびに激しくカッコいい情熱的なパフォーマンスで私たちの日常を盛り上げ、彩ってくれました。

 だから、リハビリのようすを垣間見たときはショックでした。あのヒデキが腕を上げるのにも一歩進むのにも苦しそうで、痛ましいとさえ感じました。
 でも、そんな姿を公に見せたのは、きっと彼がもう一度大きな振りで「YOUNG MAN」を歌うために自らを叱咤激励するためでもあったのだろうし、生涯なんとしても歌い続けたいという意志も固かったのでしょう。それだけに、訃報は辛かった。
 『ブロウアップ・ヒデキ』(1975年)は、私が生まれて初めて見た音楽のライヴ映画でした。
 巨大なクレーンに吊るされた、ビルの窓清掃に使われるような不安定な足場に乗って観客の頭上を移動する姿を見て、スターというのはこんなこともやるんだと度肝を抜かれた記憶があります。

 度肝を抜くと言うことであれば、ヒデキは最初っからそういう歌手だったのかもしれない。
 あんなふうにダイナミックに体を動かして、高圧電流でも通っているかのように全身を震わせながらシャウトするシンガーに出会ったのは初めて。もちろん、ジュリーという最高に偉大な先駆者がいたんですけど、ヒデキはもっと劇画的だったし、もっとワイルドだったし、もっと運動能力とステージ・アクションが密に繋がっていました。それらの要素と60~70年代のロックやソウル・ミュージックのビート感を吸収した歌唱が直結したところに、ヒデキのあのハイ・ボルテージで熱いパフォーマンスが作られていったのだと思います。ホントに、あの人の歌っている周りだけが異常に熱量が高かった。
 新御三家はヒデキも五郎もひろみも、みんなロックに影響を受けており、三人とも何らかの形で自分の音楽にそれを反映させてきました。
 ですが、ジュリーやショーケンとくらべると、カウンター・カルチャーとの関りを濃厚には感じさせない存在でもありました。一部、出演映画を含めた郷ひろみの活動にそれっぽい匂いがあったとはいえ、サンタナやラリー・カールトンに影響を受けた野口五郎のギター・ワークにしても、ジュリーやショーケンが背負ってきたものよりは(良い意味での)軽みを感じさせるし、ロックのカウンター・カルチャー性とダイレクトに結びつくものではありません。新御三家の主戦場は爛熟期に向かっていた歌謡曲のフィールドだったわけで、その大衆性ゆえに軽視されるきらいもありました(これはジュリーも同じ)

 かく言う私なんかも、そう。
 以前ジュリーについて書いたこと(こちら)を繰り返すと、ロックに夢中になるにつれて歌謡曲を見下すようになった前科を私は持っています。

 自分が子供の頃に好きだった歌をあれこれと聴き漁っているうちに、ヒデキの歌の凄さに唖然としたのは、十年と少し前のこと。正直に言って、ここまで抜群に歌の上手い人だとの印象はなかったし、それが『ちびまる子ちゃん』の「走れ正直者」でのユーモアを湛えながらも二の線を崩さないし崩れないスタイルの強さや、『∀ガンダム』の「ターンAターン」の居合斬りのような迫力にも繋がっていることを思い知らされたのです。
 ロックが伝来してから第二段階めくらいに、ドメスティックな大衆性が濃度を増すことによって極まったもの。その強さに惚れ直しました。
 今回の訃報で唯一救われたのは、私たちよりずっと後になってからヒデキを知った世代の人たちが「年寄りの思い入れは知らないけど、自分たちにとってのヒデキはターンAなんだ!」と主張する声が目に入ったことでした。
 新旧ファンでヒデキを取り合う花いちもんめ。嬉しいじゃないですか。表現者たるもの、より新しい仕事を評価されたい気持ちは強いはずです。新世代によるマウンティング返しの声がヒデキに届けばいいな、と旧世代の私は思います。
 『3年B組金八先生』第2シリーズに、こんなシーンがありました。母校を追われる形で桜中学に転入してきた加藤優を、スナックZでひと悶着あったあとにクラスに迎え入れる場面です。
 学活で生徒が一人、当番制で前に出てみんなで歌う歌を決めることになっていて、その日は加藤優に選曲が任されます。そこで加藤がためらいがちに選んだ曲が「YOUNG MAN」。「そんな歌があるのか?」と訝しむ金八と、「先生、知らないの?」と呆れる生徒たち。オンエアは1980年ですから、ほんの1年前のヒット曲でした。

 日本中のみんなが知っている歌。フダ付きのワルのレッテルを貼られていた加藤優でも知っていた歌。クラス一番のお調子者が音頭をとってイントロを歌いだし、3年B組での大合唱となります。
 その場面には、もちろんヒデキは登場しません。でも、合唱する生徒の誰もが役をこえて、そしてテレビを見ている私たちも引き込んで、♪憂鬱など吹き飛ばして 君も元気だせよ♪と歌われる日本版「YOUNG MAN」は、確実にヒデキが時代に刻みつけた青春讃歌となって響きました。
 それがゲイ・アンセムであるオリジナルのニュアンスからどんなにかけ離れていたとしても、そのことをどんなに揶揄されたとしても、あの歌は間違いなくヒデキの「YOUNG MAN」であり、私たちの「Y.M.C.A.」だったのです。