沢田研二/ 彼は眠れない (1989) | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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 「ジュリーが歌う。ジュリーが叫ぶ。ジュリー、ジュリー、ジュリ~~っ!そして僕は泣く…」
 これは当時21歳の私がこのアルバムからダビングしたカセット・テープのラベルに書き殴った私家版キャッチ・コピーだ。友人に見せたらアホかと笑われた。たしかにアホである。でも、こ
んなことをさせてしまう力がこのアルバム『彼は眠れない』にはみなぎっていた。
 
 沢田研二について人と話すときの舞い上がるような気持ちはなんなのだろう。
 この記事のずっと下のほうに写真を載せたように、10年ほど前に彼のシングル盤を40枚ほど集めたことがある。すべては網羅できていない。持っていないLPもずいぶんある。私は熱心なジュリー・
マニアとは言えないだろう。
 それでも、ジュリーのことを話していると、胸の奥から熱いものが自然とこみあげてくるのを止められない。それは楽しさというより嬉しさと言ったほうがいい。
 
 世代的なものもあるのかもしれない。
 私は70年代の後半、ごく平均的な小学生がそうであったように、テレビの音楽番組をよく見ていた。以前も書いたけれど、掃除の時間に男子全員で黒板の前にズラリと並び、「勝手にしやがれ」を振り付きで歌った。曲間で客席の女子に向かって野球帽を投げるとき、腕で放るのではなく、手首の、それもほとんど指のスナップで飛ばす。そうすればキャアキャア騒いで拾いに行ってくれた。うまく飛ばせるヤツは、ジュリー同様に野球少年だった。
 
 シングルを出すたびに打ち出してくる機軸の歌舞いた華やかさ、男でも注意を惹かれるルックスの美しさ、それとは対照的な男っぽい気骨のあるヤンチャな横顔、ドリフのコントで見せるお茶目ではにかんだ微笑み。自分がもっと大人だったら他にもいろんなことが味わえたのだろうが、諦念を涙袋におさめたような気だるいまなざしや、ベタつかない渇いた絶叫は、子供には理解するにちょっと背の足りないものだった。けれど、昭和50年代前半、Jポップなんて呼称が生まれるずっと前、子供たちにとっても沢田研二は歌謡曲の比類なきスーパースターだった。
 
 そんな子供の一人だった私も、80年に中学生になると、小学生時代のエンターテインメントから少しずつ距離を置いていくようになる。時代はニューウェイヴやテクノ・ポップ。ジュリーも果敢にそれと取り組み成果をあげていたが、思春期に入りロックを聴くようになった私にとって、歌謡曲は徐々にリアルな音楽ではなくなっていった。
 今、そのことに対して疾しさもおぼえる。
 
 1989年の『彼は眠れない』は私が初めて買った沢田研二のアルバムだ。そのときも、ルースターズ解散直後の下山淳がギターで参加していること、「KI.MA.GU.RE」で忌野清志郎がゲスト・ヴォーカルとして参加していることのほうが重要だった。
 ただ、これは言い訳ではなく、沢田研二のアルバムを初めて買う21歳の私がどこか特別な期待を感じていたのも確かなのだ。そういえばジュリーってカッコよかったよな、いま聴いても案外いいかもなぁと、ちょっとした「とらえ直し」の気分が生じた。ずいぶん長く忘れていたけど(と言っても5年ほどのことなのだが)、ジュリーのあの歌が久しぶりに近い場所で鳴るような予感がした。
 
 1曲めの「ポラロイドGIRL」がはじまり、当時プリンセス・プリンセスで大ブレイク中の奥居香が作ったポップなロックンロールに乗ってジュリーの声が聞こえるや、私はのけぞってしまった。かつて無邪気に遊びなついていたお兄さんが実は偉大な人だったと知ったようなものだ。無知が恥ずかしくて消え入りたくなり、ジュリーに謝りたいとすら思った。われながら調子がよすぎるとは思うが、こんなとんでもなく凄い歌手を聴いていた自分の子供時代が誇らしくもなった。
 
 『彼は眠れない』がリリースされる前、沢田研二はCO-CóLOというバンドを結成しアルバムを3枚作っている。チト河内、上原裕、石間秀機、クマ原田、篠原信彦など70年代のロックを背負ってきた凄腕のミュージシャンたちと組んだバンドで、発売から後になって聴いたそれらのアルバムは、落ち着いたトーンの中に艶かしく淫靡な光沢がきらめく「アダルト・グラム・ロック」とでも呼べる作品だった。また、「STEPPIN' STONES」という、当時のスティーヴ・ウィンウッドにも通じる傑作シングルなどもあった。
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 これらのレコードはそのクォリティの高さにくらべると一般的な知名度を得られなかった。かつてのジュリーのヒット曲のイメージとあまりにかけ離れているうえ、80年代半ばの歌謡曲シーンにおいては洋楽テイストが強すぎたということなのだろう。また、他ならぬ当時の私のように、歌謡曲をどこか見下していたロック・ファンが自分で築いた壁にはばまれて届かなかったこともある。
 
 時、おりしもバンド・ブームの真っ盛り。チャートの顔ぶれが若いロック・バンドで塗り替わってゆき、放課後に学校帰りの女の子たちがギター・ケースを抱えて楽器屋をうろついていた1989年。平成元年でもあった。ジュリーは伝家の宝刀を抜いたのだ。
 このアルバムの前半、とくに4曲めまでは、新しいバンドJAZZMASTERとともに、ハイエナジーで時代に斬り込んでゆくジュリーの姿の堂々たる足どりに、野郎の心も小娘のようにざわめいた。

 忌野清志郎が作曲(小原礼との共作)しデュエットもつとめた「KI.MA.GU.RE」は、半信半疑でいるロック・ファンを黙らせるに充分すぎる快作だった。私はジュリーより清志郎への思い入れがずっと強い。そんな私だからこそ、あえて言う。獰猛に喰らいかかるようなジュリーのシャウトは清志郎をも凌ぐ。
 最高のシンガー2人が繰り広げる、スリル満点のソウル・ミュージックである。清志郎ならではの、自分を揶揄しかつ誰かを指さす諧謔のエッジが冴える歌詞を、2人で交互にそして一緒
に歌うさまを聴いていると、その歌の向こうに、同じ時代の空気を共有し同じ音楽を愛してきた人たちに通じ合うものの揺るぎなさが見えて心を揺さぶられる。なんにも語られていないけど確かに聞こえてくるこのスピリット。アルバム中、いちばんホットな曲はこれだ。
 
 アルバムの後半は比較的しっとりした曲が続き、当時聴いたときにはここが物足りなかった。けれど、その頃より多少は沢田研二の音楽を聴いた今向き合うと、前半のテンションの高さが異常だったのだと思える。ジュリーの歌の色気をたっぷりと味わえるのは後半のほうだ。
 松任谷由実の「静かなまぼろし」での「あなた」という言葉の響きは70年代ジュリーの甘い倦怠を彷彿とさせるし、吉田建の「堕天使の羽音」で若い女の子を見つめる視線のうつろな妖しさもいい。大沢誉志幸の「Tell Me...Blue」やNOBODYの「DOWN」などで歯切れのいいビートに乗ってポップなメロディーを歌うジュリーは、あらためてこの分野での先駆者ぶりを実感させる。
 
 
 チェッカーズの鶴久政治による「僕は泣く」はクリフ・リチャードあたりまでさかのぼったオールディーズ風味のミディアム・ナンバーで、シンプルな曲調とリラックスした歌の淡さが心に残る。徳永英明が書いた2曲「DAYS」「ルナ」にはデビュー時から沢田研二の歌声に宿っていたファンタジックな叙情性が立ち現れていて、アルバムを余韻を残して締めくくっている。
 
 鶴久政治も徳永英明も、それに奥居香でさえも、1989年には私の興味の外にあった人たちだ。私が聴かなかったミュージシャンである。そこには80年代の後半に沢田研二に関心を持たなかったことと同じ理屈が働いていた。私はそれを物差しだと勘違いしていたが、偏見だったのだ。このアルバムを聴いて、ロックが歌謡曲がどうとかアイドルだからとか売れてるからとか売れていないからとか、そういうことではない、そういうものではないんだと思い至った。
 
 グラム・ロックにしてもストーンズにしてもニューウェイヴにしても、私が後追いして夢中になった音楽は、じつは沢田研二の歌で子供の頃に刷り込まれていたのだとわかった。考えてもみなかったことだが、ぜんぶ彼の歌の中にあったのだ。ジュリーはあのド派手な演出と絶叫とで、音楽がどんなに素晴らしいものかを、おそらく本人も無意識のうちに子供たちに伝えてくれていたのである。だから私たちは大喜びで野球帽を飛ばしたのだ。
 
 60年代、ロックに衝き動かされて音楽の世界に身を投じ、歌謡曲のフィールドで闘い続けたジュリー。その彼にたくさんの夢を見させてもらいながら、目が覚めると離れていった私が良かったのか悪かったのか、わからない。それが成長期というもので私はその真っただ中にいたとしか言えない。
 それだけに、このアルバムでまた彼の歌にちゃんと出会えて、よりリアルでロマンティックな存在としての沢田研二を認識できたのはとても心躍る出来事だった。
 『彼は眠れない』には、ジュリーの黄金の声が光り輝いている。こみあげてくるものは、やはり「嬉しさ」なのだった。
 
(以下、私の持っているジュリーのシングルです。もちろん、コンプリートじゃありません。この中でいちばん好きなのは、「サムライ」のB面「あなたに今夜はワインをふりかけ」です。)
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