Morrissey / Kill Uncle (1991) | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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 1991年の6月、初来日したダイナソーJrを大阪のモーダ・ホールに観に行った。ライヴを堪能して外に出ると、なにやらチラシを配っている。手渡されて視線を落とした先には、「モリッシー」「大阪城ホール」の文字。一気に体じゅうの血液が逆流した。モリッシーがついに日本に来る!大阪城ホール?客集まんのか?私だけの心の声ではなかった。その場にいた人たちが同じように口に出した言葉が、駅につらなる群れの中から重なって漏れてきた。その表情はみな明るかった。

 
 いかに初来日とはいえ、いかにザ・スミスが日本に来ないまま解散したとはいえ、大阪城ホールである。チケットはわりあい簡単に取れた。手元に残る半券を見ると、5列目と記されている。
 しかし、始まってモリッシーの姿が見えるや客がパイプ椅子の上に立ち上がり、ステージ前に突進どころかステージにあがってモリッシーにハグする者、続出。モリッシーはその一人一人を抱き返したりしながら歌う。
 空いたほうへ移動する客も多くなり、私も自分がどのくらいの位置で観ていたのか、まったく実感としておぼえていない。
(そうそう、こんなステージングが大阪城ホールであったんだ…)
 
 モリッシーやザ・スミスのファンというのは、洋の東西を問わず、一見するとおとなしめで内向的、いかにもライヴで大騒ぎするタイプというのは多くない。そういう人たちがジーンズのバック・ポケットにグラジオラスかなんかの花を差したまま、歯止めがきかなくなって暴走する。これはなかなかに壮絶な光景だった。後から知った話では、モリッシーからの通達で会場の警備をゆるめていたらしい。
 
 この熱狂の中にあって、23歳だった私には「予定調和」という言葉も浮かんだのだが、上がってきた客にしがみつかれてふりほどくでもなく、なすがままに近い形で歌詞もきれぎれに歌い続けるモリッシーを見ていると、自分の思い入れを代わりに受けとめてもらえているような感慨をおぼえたりした。ザ・スミスにとくに興味のない人には理解しがたいことかもしれない。
 
 モリッシーのソロ・アルバム『キル・アンクル』は、そんな来日のあった91年の3月にリリースされた。スミス解散からすると3枚めのアルバムになるのだけれど、セカンドの『ボナ・ドラッグ(今なら「ドラァグ」と表記されるか)』はシングルのコンピレーションだったので、当時を知る者としては『キル・アンクル』をサードと数えることに抵抗がある。よく考えたら、スミスのディスコグラフィーでもセカンドは編集盤だったのだが。
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 ファースト・アルバムは、ジョニー・マーがスミスを脱退して約半年後の88年3月に発売された『VIVA HATE』。スミス時代から組んできたスティーヴン・ストリートをプロデューサーと作曲のパートナーに、ドゥルッティ・コラムのヴィニ・ライリーを新たなギタリストに迎えての注目作だった。
 
 この「憎しみ万歳」なるタイトル、私はあまりに直截的すぎるんじゃないかと戸惑いをおぼえた。スミスにも「女王は死んだ」とか「肉を食うのは人殺しの所業」とかはあったが、それらはモリッシーらしく知性が捻転したユーモアを感じさせた。それにくらべての「憎しみ万歳」。どうも頼りないし、のれない。スミスにかぶれた中坊がノートの端っこに書きなぐって悦に入っているような、出来の悪いセルフ・パロディにしか思えなかった。
 いい曲もあったけれど、アルバム全体は煮えきらない印象を残した。当時のモリッシーはスミスを失ったばかりで、なにをやっても痛々しく映ってしまう時期であった
。また、88年はロック、とくにイギリスのロック・シーンが翌年以降のインディ・ギター/ダンス・バンドのムーヴメントまで沈滞していたことも印象を左右している。
 
 時間が経って聴き返すと佳作と呼びたくなる部分もあるので悪くは言いたくないが、88年に『VIVA HATE』から私に聞こえてきたものは「スミスはとっくに終わった」という事実だけだった。私もまたその事実を受け入れたくなかったからこそ、このアルバムにスミスを求めて失望したのだと思う。
 
 ”セカンド”アルバムにあたる『ボナ・ドラッグ』がリリースされたのは1990年の秋。
 90年の秋というと、イギリスのロックは若いバンドたちで百花繚乱だった。このブログがおもに扱っているあの季節である。ダンス・シーンはハウスだったし、アメリカではグランジ、ヒップホップと、リスナーの世代交代が起きていてもおかしくはない。ここではじめてイギリスの、いやロックというものに触れる若者だっていたはず。モリッシーやザ・スミスは「ひとつ前の世代」になってしまった感があったし、「新世代」にうつつを抜かしていた私は『ボナ・ドラッグ』もニュー・アルバム制作が頓挫しての「間に合わせ」としてネガティヴな印象を持った。

 とは言え、ファーストから後の「インタレスティング・ドラッグ(こちらはdrugです)」、「モンスターが生まれる11月」、「ウィジャボード、ウィジャボード」などのシングルには、90年前後の新しいUKロックのエッジを伴ったモリッシーの歌声が無理のない清新さを持って響いた。スミスを乗り越えようとする意志も『VIVA HATE』ほど空回りせず、音に活力として反映されている。デス・ヴァレーのマッシュルーム・ロックで撮られた「モンスターが~」のPVはモリッシーのエキセントリックな存在感を再認識させるのに充分で、私も「この人は…ホンマモンや!」と衝撃を受けたものだ。
 
 年が明けて91年の3月、『キル・アンクル』が発表された。ジャケットをとっても、『ボナ・ドラッグ』がポップなモリッシー像を新しいリスナーに提示できたとしたら、『キル・アンクル』はそこからまたボンヤリと晴れた空の下、よるべない目線で立つモリッシーだ。しかしこれは春の訪れる方角を見ているモリッシーでもあった。心なしか、カール・ドライヤーの古典『奇跡』を思わせもする(誰もこのことを口にしないのは、当たり前すぎて今さら恥ずかしいのか、私の感性に問題があるのか…)。
 
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 『キル・アンクル』は、クライヴ・ランガーとアラン・ウィンスタンリーのプロデューサー・チームと組んだアルバムだ。この2人はマッドネスやストラングラーズ、エルヴィス・コステロなどニューウェイヴ系アーティストの少しポップな秀作を手がけている。ティアドロップ・エクスプローズの傑作『キリマンジャロ』もそう。
 モリッシーのパートナーとなるソングライターにはマーク・E・ネヴィンが抜擢された。彼はフェアグラウンド・アトラクションの名曲を作りだしたソングライターだ。
 どのメンツも、モリッシーとは合いそうで合わなそうで、外野にはちょっと測りにくい距離感がある。そしてそのカードがすべて吉と出たと言える。
 とくにマーク・E・ネヴィンの美点である、イギリスのフォークに根差した、人の心に自然な感情の波を起こさせる人懐こく奥深いメロディーが素晴らしい。モリッシーの毒をたっぷり含んだ歌詞に絶妙なまろみを与えている。1曲めの「アワ・フランク」の「ぼくたちの会話って飾らないしオープンだし深いんだけどさぁ、そんなのどうしようもなくつまんないよ。ウンザリするだけなんだよ」という”モリッシーここにあり!”な屈折した歌詞(スミスのファンに対する当てこすりかと思った)を乗せるメロディーと、まるでポール・キャラックみたいなピアノのアレンジに、ようやくモリッシーの新しい一歩が実感できた。
 
 『VIVA HATE』に入っていた「プラットフォームのベンガル人」と対をなす「エイジアン・ラット」のような英国社会での移民差別にふれた曲、身体障碍者を題材にした「モンスターが生まれる11月」と連なる「ミュート・ウィットネス」と、ソロ・キャリアの踏み出しを確かなものにするモリッシー流の一筋縄ではいかないメッセージ・ソングもある。

 また、スミスの頃から使われるモチーフが見られる自虐的な詞の世界は「ドライヴィング・ユア・ガールフレンド・ホーム」「エンド・オヴ・ザ・ファミリー・ライン」の2曲がきわめつけの良曲で、アルバム中でもとくに完成度が高い。前者は、友人の彼女を車で送るうち、彼氏の愚痴を聞いてなんとなく妙な雰囲気になりつつも、「おやすみの握手をして別れた」と掌編小説を読む味わいの中に不如意の痛切さをのぞかせる。後者では、「子供を持たないまま、ぼくは15代続いた家系を絶えさせることになるんだ」と自嘲と悲嘆と諦念のあいだを行きかいながら、自分の存在に孤高の価値を見出す姿が垣間見える。
 
 この2曲はどちらもスミス以来おなじみのモリッシー節だ。『VIVA HATE』にもこうしたテイストはあったし、それらはまんざら悪くはなかった。ただ、あのアルバムは、いわば恋愛が終わったあとに、「ぼくは君といた頃と変わらないくらい最高のことを、一人でもできるさ」と(自分自身に)強がって同じことをやってみせるのが痛々しかったのだ。そこにとらわれる限りは、とっくに終わった物を本当に終わらせられない。終わらせたくないみじめさが浮き彫りになるだけだ。
 
 『キル・アンクル』は、モリッシーのソロ・キャリアの中では地味なアルバムだ。新趣向、決意表明といったわかりやすい仕掛けはない。むしろ、そういうものに敢えて覆いをかけて、一つの季節を一寸試しに弔うような手つきは、その後の順調な彼のディスコグラフィーからは少し浮いている点もある。
 しかし、あの頃、『VIVA HATE』でスミス打ち上げの盛り上がらない二次会に付きあってる思いになった私は、『キル・アンクル』にモリッシーの「生まれ直し」の産声を聞いた。だから、ステージに殺到する日本のファンに対峙することを厭わず歌い続けた大阪城ホールでのモリッシーが、健気にもたくましくも見えたのである。彼は終わりを受け入れることで、一人のアーティストとしてここに始まったのだ。
 
「裸にした真実」 ポール・エリュアール
絶望には翼がない
恋にもない
顔もない
口もきかない
私は動かない
私は絶望も恋も見はしない
私は彼等に話はしない
だが私は 私の恋と
私の絶望と同じやうに生きてゐる。
(堀口大學 訳)
 
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