前回のレビュー記事(『『罪と罰』レビュー③~『罪と罰』と『デスノート』~』)から結構期間が経ってしまったんですが、『罪と罰』のレビュー第4弾です。
『『罪と罰』ドストエフスキー レビュー②~ニーチェ思想とドストエフスキー~(※コメント返し中心)』
第3回のレビューでは、小説『罪と罰』と漫画『デスノート』の内容を比較してその類似性を指摘した上で、信仰と無神論というカタチで両作品には明確な違いが存在するということに関して説明しました。
Wikipediaの解説では『罪と罰』の内容に関して「人間回復への強烈な願望を訴えたヒューマニズムが描かれた小説である。」と説明されていますが、この両作品の違いが明確に表れる点は、ポルフィーリーから「あなたはラザロの復活を信じますか?」と問われた際に、ラスコーリニコフが「信じる」と答えた点と、『デスノート』のラストで、ライトが死んだ際に死神が「死んだら無だ」と述べた点です。
ラザロの復活の話は、説明するのが難しいのでここでは説明しませんが、とりあえず一見無神論者であるように見えるラスコーリニコフも聖書の一説を信じていたことから、信仰の心が残っていたことの証明であると理解してもらえればとりあえずは良いです。
そして、一方で『デスノート』における、死神の「死んだら無だ」のくだりなのですが、作中に登場し最初に主人公のライトの前にデスノートを落として拾わせる死神リュークが、自身の能力と「デスノート」の力に酔いしれる主人公に脅しをかけるように投げかけた次の言葉がもとになっています。
「デスノートを使った人間が○○○や地獄に行けると思うな」
で、まあ物語の最後にライトは2代目Lであるニアとの頭脳戦に敗れ、死ぬことになるのですが、「善人だろうが悪人だろうが死んだら無だ」というのが最後のオチになっています。
なので、まあ「最終的に神も天国もないよ」という無神論的なオチなのですが、一方で、そもそも地獄とか死神とかを作っている時点で首尾一貫した徹底的な無神論というよりは多神教的な価値観を踏襲しているように思えなくもなりません・・・( ̄▽ ̄;)
ちなみに、死神の存在は普通人間の目には見えないのですが、触ることも出来るし、デスノートに触れれば人間の目でも見ることが出来るという点から、超物質的な存在ではなく異次元の存在でもありません。
また、死神が存在した地獄も、死者の魂が行く先ではなく、またうっかりした死神が人間界にデスノートを落としてしまったりといった描写も存在することから、地獄も異次元や異世界の存在ではないように思われます。まあ、さらに言うと、死神と言っても何か人間の運命や死を司るような超越的な存在というよりも、人間の寿命を奪って自分の生命を維持するという点から、食事に近い感覚で人間の生命を奪っているようです。
なので、まあ物語の構造としては、『デスノート』は最初に死神が出てきたり、「新世界の神に俺はなる(ドン」的な感じで神の存在が明らかに意識されている有神論的な世界観から、終盤に無神論的な世界観に転落していく一方で、『罪と罰』は悲惨な境遇の中で、功利主義的な価値観や世界観を作り上げた主人公が最後に人間性の回復を遂げ信仰へ回帰していく物語になっているんですね。
というワケで、今回は『罪と罰』を漫画『デスノート』との比較を信仰への回帰と無神論という観点から解説してみました。次回以降の記事でもこの作品については解説してみたいと思います。
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