『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門 アートが社会と深く関わるための10のポイント』(著 パブロ・エルゲラ 翻訳  アート&ソサイエティ研究センター SEA研究会)という本を読みました。

 

特に何か感銘を受けたということもないのですが、とりあえず図書館に返却前に読み終わったので少しレビューとか感想を・・・。

 

概要を説明するために「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」をWikipedia内で検索しても出てこないことからも分かるように比較的新しいアートの在り方と用語のようです。

 

ただし、物凄く新しい概念かというとそうでもなく、翻訳は2015年、原著は2011年に出版されているようです。現在のところ、適切な訳語を当てはめるのは難しいようです。日本語版のみに収録されている巻末の特別寄稿には現在の日本の「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」に関してこのように書かれています。

 

邦訳のタイトル『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門』に、言語がそのままカタカナ表記されているように、この「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」という言葉は、適当な日本語への翻訳が難しい。国際的にもこの半世紀の間に現代アートそのものの概念が造形としての物理的な作品からプロセスへ、商品からアクティヴィティへ、美術館での展示から公共空間や自然環境へ、アートメイキングからソーシャル・プラクティスやネットワーク形成へと拡大してきたことで、本書にもあるとおり、「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」、「リレーショナル・アート(関係性の美学)」、「コミュニティー・アート」、「参加型アート」、「ソーシャル・プラクティス」など多様な用語が生み出された。これらは、アートと社会、作家と観客、物質と体験、概念と現実などのあいだで、微妙にその本質や目的をずらしながら重なり合って成立しているともいえる。(中略)

日本では、この範疇にあると考えられる活動は、どちらかと言えば、公共性や市民参加という大義のもと、ポジティブで正当性が高い「光」の部分のみが先行し、現場で実際に各人が感じているであろう「影」の部分については、議論や言語化が遅れているのが現状だといえる。「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」の訳語は、今後期待される議論や言語化のプロセスのなかで、見いだされて行くのかもしれない。

 

まあ、このように説明されてもさっぱりイメージが浮かばないと思うので検索して出てきた定義と、実際の作品例を挙げると・・・

 

SEAとは何か?

ソーシャリー・エンゲイジド・アートには、いまだ普遍的な定義はありませんが、SEAリサーチラボでは次のように理解しています。
ソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)とは、アートワールドの閉じた領域から脱して、現実の世界に積極的に関わり、参加・対話のプロセスを通じて、人々の日常から既存の社会制度にいたるまで、何らかの「変革」をもたらすことを目的としたアーティストの活動を総称するものである。

『SEAとは?』より)

 

「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」とは、現実社会に直接的にかかわり、人々との対話・協働のプロセスを通じて社会変革をもたらそうと試みるアート活動の総称だ。

『日本初の『ソーシャリー・エンゲイジド・アート展』をレポート プロジェクトを展示する新たな試み』より)

 

ちなみに、このソーシャリー・エンゲイジド・アート展では次のような展示もなされたようです。

 

なかででも、ソーシャリー・エンゲイジド・アートの先駆的存在でもあるスザンヌ・レイシーの《自らの手で》の映像インスタレーションは壮観である。《自らの手で》はもともとパフォーマンス作品であり、これはその「記録」に過ぎない。しかし「性暴力被害女性の手紙を、男性が闘牛場で読み上げる」というこのパフォーマンスの記録映像を、ろうそくや写真とともに配置することで、その迫力を演出してくれている。この作品で読み上げられる性暴力被害者の手紙には、ときには耳を塞ぎたくなるような描写も含まれる。女性が綴ったそのような言葉が、男性の口から語られるのだ。言葉では言い尽くせない情景である。レイシーはこのプロジェクトをやるにあたり、男性の積極的な参加を求めることで彼らの意識改革を試みたのだった。

 

 

それから、先のHPではイギリスのポップアート界の寵児であるジェレミー・デラー氏のこんな言葉も紹介されています。

 

私は、モノを作るアーティストから、コトを起こすアーティストに身を転じた。

 

価値観の転倒という表現も出来るかもしれませんが、一方でアート作品やその市場における飽和現象とも考えられるのかなとも思います。

 

また、やはりこの定義の曖昧さは非常に難しい問題の一つとなっているようで、やはりこの「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」を学ぼうとする熱心な学生の内にも、「結局、社会変革などを目指すなら、通常の社会運動家になった方が良いのではないか?」と考え転身する者も少なからず存在するそうです。

 

社会運動とアートの中間領域に存在するという曖昧さこそがその特筆すべきポイントであると同時に、その活動や認識の難しさとも直結している。

 

まあ、あまり現代アートには理解もないので、どうしてもダンスの話になってしまうのですが、やはりダンスの分野でも似たような変化は起こっているように思います。

 

ネットなどの呼び掛けで集まったメンバーが街中で突然パフォーマンスを初めてパフォーマンス後に即座に解散する「フラッシュモブ」などが典型ですが、ダンスシーンにおいてもそれまでのショーケースで観客の前でパフォーマーがパフォーマンスを行うというそれまでの形態も保持しつつ、同時にある種の変化や多様性も生じています。

 

例えば、現在YouTubeなどでダンスの動画を検索してみると非常に再生数の多い動画のうちに、海外のダンススクールで練習の様子や生徒のパフォーマンスが収められている動画が数多く存在していて・・・

 

 

 

つまり、「パフォーマーと観客」「パフォーマンスを教える先生と教わる生徒」というような関係性を曖昧にしているワケなんですね。

 

まあ、もともとストリートダンスというのは、街中やクラブなどで踊りたい人やパフォーマンスを披露したい人が乱入して踊りだすというのがずっと主流だったワケで、そういう意味ではこのような転換はしやすかっただろうし、同時にある種の原点回帰(にインターネットなどのメディアを活用したプラスアルファ―)であるといえるかもしれません。

 

また、この突発的なパフォーマンスとして思い出すのは、以前代々木公園などでブレイクダンサーの集団がブイブイ言わせていた頃には、週末などはダンサーで集まってサークルを作り皆でパフォーマンスを行っていたのですが、各々好き勝手踊っている周りに自然と人だかりが出来てオーディエンスとなっていました。これもある種の「SEA」なのかなーとか思ったり・・・。

 

あと、まあやはりこういう本を読むとどうしても自分でも刺激を受けるので、何か自分のパフォーマンスにもこのような「曖昧性」の概念を取り入れられないかなーとか考えています。

 

現在作っている動画では、パフォーマンスとチュートリアルを同時に詰め込んだような動画を作っているのですが・・・

 

 

 

 

何かこう、イメージとしては「実際に初心者にムーンウォークのやり方を教えてみて10分以内に出来るようにさせらるか?!」みたいな企画が出来たらちょっと面白いかなーとか思っています(笑)

 

私自身が「SEA」の概念を理解し切れていないので、すごくフワッとした内容になってしまったのですが、とりあえず読んだ本のレビューも兼ねて色々と考えたことを書いてみました。

 

 

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