1月18日(月曜日雨


新しい大河ドラマで、武田勝頼の評判が良かったみたいで、便乗して持っている勝頼本を載せてみたチョキ
勝頼本12

武田氏研究の師、なかざわしんきち先生からプレゼントされた、勝頼本第一号グッド!

勝頼本13

勝頼本の先駆けかなチョキ


勝頼本10   勝頼本8

平山優氏、彼が学生時代から注目してたチョキ爺達と違った角度で、多角的に論じてて面白いグッド!


勝頼本   勝頼本2

一番新しいかなはてなマーク


勝頼本15

当時、初の勝頼特集


勝頼本11   勝頼本9

長篠の合戦本


勝頼本4   勝頼本3

新しい合戦本


勝頼本21

長篠合戦が収められている


勝頼本6   勝頼本7

新府城址本


勝頼本22

武田氏研究の師、なかざわしんきち先生の私家本チョキ全巻揃ってるよグッド!



勝頼本14   勝頼本17

勝頼小説本


勝頼本18   勝頼本19


勝頼本20

新田次郎最期の小説、〝武田信玄〟の続編クラッカー


勝頼本5

勝頼時代も収めてるグッド!


勝頼論文もたくさん出されて、評価が変わって来てるグッド!


今回の大河ドラマの脚本、三谷幸喜は武田好きかも・・・

〝清洲会議〟で、織田信忠の室は武田信玄の娘になってたグッド!

↓の本読んだのかもクラッカー

勝頼本16

興味深い説ですグッド!面白い本ですよねクラッカー


で、まとめた物を再掲載しますチョキ

2009年4月30日、5月2日、2010年2月26日のブログに掲載したものですクラッカー


武田勝頼(諏訪四郎・大膳大夫) 1546-1582

武田晴信の4子。母は諏訪頼重の女。永禄5(1562)年6月諏訪高遠氏の名跡を継ぎ、高遠城主となる。同7年11月、伊那郡小野神社に梵鐘を寄進している。同8年10月兄義信が父信玄暗殺を企て失敗し、甲府東光寺に幽閉される。同11月13日、織田信長養女遠山氏を娶る。

嫡子義信死後、ほかに家督を継承するものがなかったところから、嗣子に定められた。永禄11年(1568)頃から父と行動をともにするようになり、代行として領内に文書を発給している。同12年8月、北条氏照の武蔵滝山城を攻めた。元亀元(1570)年4月、信玄は将軍義昭に駿河で一万疋の御料所を進上すると伝え、勝頼の任官と編諱の拝領を要請している。おそらく義昭から官途と編諱を授かって、諏訪勝頼の名乗りを、正式に武田宗家を継ぐに足る名前にしようとしたのであろう。しかし信長は義昭の動きを封じ、その自由の裁量を禁じたため、勝頼は官途を授けられず、受領名も無いままに終わった。もしかしたら〝武田昭信〟となっていたかもしれなかった。同8月山県昌景・小山田信茂と共に、北条氏規・氏忠兄弟が籠る伊豆韮山城を攻撃した。同2年9月16日、室の遠山氏(龍勝院殿)が死去。同3(1572)年遠江二股城を攻め落とし、三方が原の戦いにも参戦した。天正2(1574)年2月東美濃に入り明智城や櫛原城を落とし、他の18ヵ所も攻め落とした。4月遠江に出陣、高天神城を包囲、6月に遠江高天神城を落とした。この年の6月に信長が上杉謙信に送った書状に『武田四郎は若輩であるが、信玄の掟をよく守って、表裏の駆け引きが大変うまく油断ならない・・・』とある。これが当時の一般的な勝頼評であろう。同3年5月1日、三河長篠城を包囲した。同月21日、織田信長・徳川家康連合軍と設楽原で戦い、多くの重臣が戦死する大敗を喫した。この戦いで信玄以来の宿老はほとんど戦死しているが、親族衆はほとんど無傷だった。このことは四男の勝頼に対して同列の朋輩意識しか無く、臣従の意識が無かったことを物語っている。従来この戦いは信長軍の3千丁の鉄砲の連射によって武田軍が壊滅したと説明されていたが、実は多くの戦死者は通説のように柵際で銃撃に倒れたのではなく、退却の最中に戦死している。このことは『信長記』に記されている。この勝頼の三河侵攻の目的は、機内の足利義昭周辺や、六角承禎・石山本願寺等の要望に応えた軍事行動であった。すなわち父信玄が築いた外交関係を継続したものである。この合戦後、織田氏は東美濃を、徳川家康は遠江の諸城を奪回したが、勝頼は父信玄が駿河を占領したころの範図と、同2年に奪取した高天神城などの要衝は確保しぬき、信長・家康の侵攻を同8年まで食い止めた。同4年4月16日、父信玄の葬儀を塩山恵林寺で営み、正式に家督を継承し、継目の安堵状を領内に多数発給した。この頃大膳大夫を称したと考えられる。そして家康に対抗するために、同5年妻に北条氏政の妹(桂林院殿)を迎え甲相同盟が強化された。しかし、同6年3月に後継者を指名しないまま上杉謙信が急死し、2人の養子が争った。1人は姉の子景勝、もう1人は北条氏政の弟景虎で、北条氏政は景虎を支援し、勝頼も同盟関係から景虎を助けた。同年5月29日には先陣として武田信豊を信越国境に派遣した。北条軍は上野国の上杉勢と戦い、越後国攻撃は勝頼に任されたが、景勝と講和し戦線を離脱した。講和条約は①景勝から上野国西部の割譲。②景勝から黄金の贈答。③は勝頼の妹を景勝の正室として迎える。の3件だった。しかし同時に景勝と景虎の和睦を実現させようと努力をしていたが、その隙をついて家康が小山城、田中城を攻撃し始めたため、和睦交渉を諦め越後から引き揚げた。この結果景勝は景虎を滅亡させ、北条氏との関係が悪化した。こうして勝頼は東西から圧力を受け、次第に勢力を削がれていった。しかし、佐竹氏と結城氏と連携し、上野国方面では優位に立っていた。この時期(1579年末から80年にかけて)勝頼は東部戦線では大規模な攻勢をしかけて要衝上野国沼田城を陥落させ、上野国一国を手中に収める勢いだったが、西部戦線では守勢にたたされていた。それで1579年末以降、上杉景勝と共に信長と接触し、和睦の交渉をしている。すなわち上杉景勝と組んで信長との妥協を模索するというのが、この時期の勝頼の基本方針であったようだ。しかし信長は勝頼打倒を固く決意している。これは、信長は信玄が突如友好関係を破ったことを深く恨み、それは勝頼の代になっても変わることはなかったのである。同7年7月、飛騨国衆河上富信が服属した。8月には上野厩橋城主北条高広が服属した。これにより9月、武田・北条両氏は全面戦争に突入した。同月、北条・徳川同盟により、勝頼は両氏から挟撃される事になった。しかし勝頼も同月妹菊姫を上杉景勝に輿入れし、軍事同盟を結び、佐竹氏とも同盟を結んで北条氏に対抗した。同8年3月、上野の小川可遊斎が降り、北条氏政は「このままでは当方は滅亡に向かうのではないか」「上州は勝頼のものになってしまう」と真情を吐露し、織田信長に使者を派遣し、織田氏への従属を申し出た。一方勝頼は人質としていた信長の子、織田信房を佐竹氏を通じて返還したが、勝頼の使者は信長に面会すらできず、交渉は失敗に終わっている。従属姿勢を見せた氏政と、対等同盟を求めた勝頼とでは、信長の対応は異なっていた。8月真田昌幸が沼田城を落とし、9月勝頼は上野へ出陣し新田金山城を攻撃し、新田領を焼き払った後、膳城を攻略した。同9年3月ついに遠江高天神城が落城した。この高天神城攻略で信長は降伏の申し出を拒絶し、高天神衆が討って出てくるのを待ち、これを殲滅した。これは勝頼が城を見殺しにしたという体裁を取ることに信長はこだわっていた。これにより、武田氏の求心力は完全に失いほとんどの城が無血開城したのではないかと考えられる。しかし同年10月には駿河戸倉城の松田新六郎が、北条氏政から勝頼に乗り換え伊豆韮山城を攻撃している。この松田氏の行動からすれば、信長の攻撃を受ける直前まで、勝頼は恃むに足りる存在であったことになる。必ずしも追い詰められた状況にはなかったのであり、滅亡が迫っているという認識は自他共に希薄であったと思われる。同月、里見氏に擁立されていた小弓公方足利義淳が太田道誉に勝頼への軍事協力を求め、関東の情勢は武田氏に有利に傾いていた。同10年1月、木曾義昌の謀叛を木曾氏家臣千村左京進が報告している。これを聞いた勝頼は、2月2日信勝・信豊と共に諏訪上原に陣を敷いた。しかし伊那郡滝沢では、下条九兵衛が背き下条信氏を追放し、岩村口から河尻秀隆を迎え入れた。14日、松尾城主小笠原信嶺が寝返り、妻籠口から森長可等が信濃に侵入した。その後保科正直・坂西氏が籠る飯田城も自落した。16日、今福昌和が木曾鳥居峠で織田方の援軍を得た木曾義昌と戦うが敗れた。馬場美濃守は深志城の防備を固め、迎撃の態勢を整えている。遠江では小山城が自落した。17日、織田信忠が飯田に入城し、大島城を攻撃し即日攻略した。武田信綱・日向玄徳斎等は城を放棄して退去した。20日、勝頼は景勝に対して援軍の派遣を求めている。25日穴山信君が謀叛。26日北条氏政・氏直が駿河国天神ヶ尾城を落とす。26日伊豆戸倉城が陥落し、駿河三枚橋城が自落した。29日駿河久能城が落ち、城代今福虎孝は自害した。3月1日信忠は高遠城を包囲。同日駿河深沢城が自落。2日高遠城が陥落、仁科信盛・小山田昌成以下の城兵が戦死した。3日、勝頼は抗戦を諦め新府城に火を放って都留郡を目指した。信豊は勝頼の命で佐久郡小諸城に向かった。諏訪高島城、深志城開城。5日徳川勢は駿河江尻を確保。7日、小山田信茂が謀叛。この日景勝は市川昌房に書状を送り、勝頼を保護する意向を伝えている。11日、織田家臣滝川一益の攻撃を受け田野で嫡子信勝等と自害した。22日、勝頼・信勝・信豊の首級が京の下御霊社に晒された。

最後まで抵抗した高遠城は諏訪、伊那衆だった。これは武田勝頼に成りきれなくて、諏訪勝頼だった証拠では無いかと思われる。これについては柴辻俊六氏が『甲斐武田一族』の中で「諏訪家の継承は信玄の一方で便宜的な処置であり、諏訪氏側では認知されなかった・(略)・諏訪氏の通字である〝頼〟を付けて、その跡目として誇示したものであろうが、その裏付けとなるような儀式は見られず、〝頼〟字も下の方に使用されており、あえて勝頼を諏訪城主ないし諏訪郡代としなかった点にも、その便宜性が読み取れる」とある。

領国維持の困難さを察知して、天正9(1581)年勝頼は館を躑躅ヶ崎から新府に移すため、真田昌幸に普請を命じている。なぜこの場所(現韮崎市)を選んだのか。この事は笹本正治氏が平成

11年11月に韮崎市で開催された≪戦国の浪漫 新府城―ふるさとの城を語ろう≫の中の『武田勝頼と新府城』で話されている。これが一番的を得ている説だと思われるので、そのまま抜粋する事とする。「甲斐国に限った場合、ここは西に偏りすぎているが、当時の武田領国(甲斐・信濃・駿河・西上野)から見れば、ここの方が躑躅ヶ崎よりはるかに領域の中心に位置する。新府から北西に進めば諏訪郡で、そこから高遠を南下すれば伊那谷を通って遠江や三河に進める。諏訪から北西に進めば信濃府中に至る。また新府をそのまま北上したら信濃佐久郡に簡単に出られ、更に上野へと進む事が出来る。一方富士川沿いに南に向かうと江尻に出られ、駿府につながる。このように新府は領域を全部カバー出来る位置だったのです。又この城の攻撃される可能性として駿河方面を考えていたと思われる。北側からの攻撃は勝頼の本拠、諏訪で踏ん張るつもりだったようです。又ここ北巨摩郡は武田氏と古くから関係が深かっただけに、武田氏の直轄地のような場所と推定できるので、ここを選んだかもしれません。」

同年12月に新府城へ移るが、翌年1月、親族衆の木曽義昌が織田信長と通じて離反し、その討伐に向かった留守にやはり親族衆であった穴山信君が家康に内通し、2月12日には織田信忠が木曽救援の兵を起こして、余勢をもって信濃国伊那郡へ入り、3月2日には高遠城が陥落した。同3日、勝頼は新府城に火を掛けて甲斐国都留郡の岩殿城へむかった。しかし都留郡主の小山田信茂の離反によって、織田軍との挟撃にあい、同11日一族と共に山梨郡田野で自害した。『甲陽軍鑑』では岩殿城は小山田氏の要害としているが、この岩殿城の位置は、武蔵との境目にあたり、甲斐防衛の要となる。国境地帯の守備は武田氏が直接支配していた事から、この城は武田氏が築いた直轄の城と見る。勝頼がこの城を目指して逃げたのは直轄の城と考えるのが自然である。

何故勝頼が短日で打ち取られたのか?この疑問に鴨川達夫氏は『武田信玄と勝頼』の中で「信忠の進撃は、きわめて急なものであった。これを抑えようとして、信長は何度も注意を与えているが、それを振り切るようにして、信忠は甲府まで進んでしまった。この急進撃が、勝頼から応戦の余裕を奪い、組織的な抵抗を許さなかったのだと思う。」と論じている。

また、平山優氏は『同時代史料からみた武田勝頼の評価』の中で勝頼の滅亡原因を論じてるので、紹介しようと思います。「・・・・甲斐・信濃の異変と、東国の政変を告げる浅間山の噴火は、まさに武田勝頼没落と信長の勝利を告げる天変地異と受け止められた。当時の人々に、浅間山噴火は東国異変の象徴との認識が浸透していたとしたら、武田氏の家臣たちは、もはや天に見放された勝頼を支えようとはしなかったであろう。そして、小笠原信嶺が謀叛を起こし、信濃の崩壊が始まったのは、浅間山噴火が記録された、まさに2月14日当日のことであった。14日の夜、京都において東方に厚い雲が垂れ込め、空が赤く染まる様子が観測されたと『晴豊公記』に記されている。後にこの原因は浅間山の噴火で、甲斐や信濃が敗北する時に起こる怪異であるという話が伝わったと『多聞院日記』に記されている。火山の噴火は自然現象であるとはいえ、それは織田軍が信濃に足を踏み入れたまさにその日に起こったのであり、それはあまりにもタイミングがよすぎた。すでに、前年の高天神城陥落の余波で勝頼の求心力は低下しており、さらに織田氏から武田方諸将への調略が開始されていたところへ、木曽氏の謀叛と織田軍の侵攻が開始され、また天皇を始めとする皇族や貴族たちも、勝頼を「東夷」「朝敵」と指弾して、「御敵退散」の祈祷を行っていたため、武田方は動揺していた。それに加えて、実にタイミングよく浅間山が噴火したのであれば、もはや家臣や領民が勝頼を支えようとはしなかったのも頷けよう。信長や織田方の人々が、勝頼を天運に見放されたと述べた背景には、以上のような事情があったと推察される。このように、敵国や周辺諸国の人々が見た勝頼滅亡の原因は、彼の天運が尽き、時節に恵まれなかったことによるとなされていたのであり、同時代の人々の間では、勝頼の「暗遇」や「凡将」ゆえとは認識されていなかったことが確認できよう」と述べられている。

大久保彦左衛門の『三河物語』によれば、勝頼の首級と対面した信長は、勝頼を「日本にかくれなき弓取り」と評したという。信長は、勝頼を甘く見ておらず、両者の明暗は運によるものと考えていたらしい。

何故勝頼が裏切られたか・・・この事に関しては上野晴郎氏が『定本武田勝頼』に詳しく述べられているので一部を抜粋して紹介しようと思います。「①勝頼継嗣にあたって、家臣団の内訌、特に武辺を稼いで成りあがってきた士隊将たちと、武田譜代の門葉たちの激突が、信玄の死によって表面化した。②嫡男の義信が殺され、4男の勝頼が跡目をとったことに対する家臣団の宗家への不信感。③家臣団全体が勝頼は陣代という意識を排除できなかった。④信玄の死によって武田一族、親族衆のなかから、より優位な国人領主化の進展をはかろうとした動きが顕著になった。⑤曾根下野守昌世のように、義信事件で不満を持っていたものが、信玄の死と同時に、織田信長などに内応しはじめていたこと。このことは武田家滅亡後穴山・木曽両氏とともに昌世が破格の恩賞に預かり、駿河興国寺城主をそのまま認められたばかりでなく、そのほかに富士川以東の支配を認められたことで解る。この仕置きは昌世がその場で寝返った程度の簡単なものでなく、とにかく長い年月、信長に緊密に連絡し内応していたものであることを示している。等が挙げられる。勝頼は信玄時代の古い体質を捨て、家臣団統率にも新しい側近政治を編み出した。それは、今までの宿老を捨て、内務官僚型の武人の重視という形になって現れ、経済政策を中心に捉えて、軍事力の維持拡大に必要な、租税賦課の強化策をもって臨んだ。」

また新田次郎氏は『武田信玄』の中で「信玄の死後、武田家が動かなかったのは御親類衆同士の勢力争いがあったようだ。御親類衆の最高実力者は勝頼の従兄弟であり、義兄の穴山信君であった。事実信君は勝頼のことを「四郎殿」と呼び目下のように見ていた。高天神城攻略戦や長篠城奪還作戦も信君が指揮官で、勝頼は本陣にいて、戦の成り行きを見ていただけである。長篠合戦も信君が指揮し、出撃を主張したものと考えられる。この敗戦のきっかけは、御親類衆の率いる部隊が勝手に戦線を離脱したからである。後日、高坂弾正がこの戦いの責任を取らせて信君に切腹させろと勝頼に進言したことが『武田三代軍記』に書いてある。この敗戦により御親類衆の勢力が弱まり、勝頼を中心に団結したのである。」と述べている。結局穴山信君は武田家にあって派閥争いに破れ、武田氏が滅ぶことによって自分の地位の確立を目指したのでは無いだろうか。

長篠の合戦についても最近研究が進み、色々な事が解ってきた。小川和久氏が『真説・長篠合戦』で詳しく論考されているので簡単に紹介する。「長篠合戦について・・・『改正三河後風土記』では前日の5月20日の天候は五月雨が強く降り続いていたと記されている。狭い水田と、五月雨でぬかるんだ泥田。こんな場所に織田・徳川軍3万8000人が布陣して、鉄砲の三段撃ちは考えられないのである。①に設楽原へ誘い出し、②に陣城の構築を武田軍にきづかれない、③に信長が武田騎馬隊を恐れているというように見せかけた心理戦、この3つが成功して、長篠合戦大勝利になったと思われる。勝頼が長篠合戦の結果を家臣に知らせた書状に「信長が陣城に籠っていたために、味方は利を失った」と信長の陣城に引き付けられて負けたことを認めている。このことは『三州長篠合戦記』にも「二重三重の乾堀を掘り、この上によって土居を築き、木をもって柵をつけた」とあり、信長狭い水田を見下ろせる弾正山の北の端に、乾堀、土居、木柵の3つをもって、陣城を築いて武田騎馬隊を迎え撃ったのである。昨今の発掘調査でこのことを裏付けする遺構が確認されている。『信長公記』にも鉄砲の三段撃ちの記載は見あたらない。」藤本正行氏も『信長の戦国軍事学』の中で鉄砲の三段撃ちを否定している。





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