2月3日(火曜日)
標識がちゃんと有り、判りやすい
守護館が置かれたのは1336年淡路守護となった細川師氏が、1340年立川瀬の戦いで南朝方の在庁武士らを破って以降とされる。1517年守護細川尚春は阿波の三好之長に追われて和泉に逃れ、1519年5月11日に之長に殺された。翌年の同月同日には之長が細川高国との戦いに敗れ敗死している。その後尚春の子の彦四郎が淡路守護に帰り咲くが、淡路には入国していない。おそらくこの前後に館は廃絶したと思われる。
館跡中ほどに建つ薬師堂、薬師堂の横の墓地に〝武田氏先祖代々〟の墓があった。中世武田氏と関係ないと思うが・・・
館跡は大土居とよばれ、南北150m、東西100mの規模を有する単郭構造。東辺と北辺には土塁が現存しているが堀は北辺のみ現存している。東側には若宮祠・以久大明神(祭神武田万之丞・小山八郎・細川尚春)などの神祠が建っている。
江戸時代には周囲に武田土居・中野土居・奥野土居・嘉兵衛土居・乳母が土居・小山土居・岩見土居・町の土居、外土井・門・竹ノ下・家ノ下や的場など館
に関連する数多くの字が残っており、養宜館を中心に屋敷町の構成を想像できる。侍屋敷や町家も取り入れた惣構えが完成されていたと考えられる。
淡路細川氏
師氏ー氏春ー満春ー満俊ー持親ー成春ー尚春ー彦四郎
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