11月5日(火曜日晴れ


義光流武田氏の次は、義光流小笠原氏どすごちそうさまパチごちそうさまパチ

武田氏をブログで書いている時も、新しい武田氏を発見したりしたけど、加筆はしません。小笠原氏も資料が増えると、新しい事実も判ると思いますが加筆はしませんチョキ


で、ついに小笠原氏グッド!


その前に、武田氏について一言・・・

常陸国那珂郡武田郷に住み、武田義清と名乗ったから甲斐武田氏の発祥は常陸国と言うが、一代限りで有り地元でも武田氏の遺跡は発見されていない。

常陸の武田氏館跡は、~だろう、で作られている。

義清の後は逸見清光、その家督を継いだのは逸見光長チョキ

光長は平氏に仕え、上総介として上総ににあり、子供らは在京し皇嘉門院の院司を勤めている。

平氏に仕え、在京していると言うのは本宗家の証で有り、平氏が滅んでいなければ逸見氏が甲斐源氏の嫡流になっていた。

清光の2子、信義は新領を与えられ、土地の名を取って武田信義と名乗る。

源頼朝挙兵後、武田信義が甲斐源氏の嫡流になるのだが、常陸武田と甲斐武田とは別物と考える。あくまでも信義は甲斐国武田に住み、武田八幡神社で元服し武田を名乗ったのである。(烏帽子親は源為義)

そもそも武田氏自体が、常陸発祥と思っていない。

長い一言でした(´0ノ`*)オホホホ



小笠原氏


加賀美遠光の2子長清が甲斐国中巨摩郡小笠原村に拠りその姓を称したのに始まる。長清は父遠光と共に源頼朝の挙兵に応じて戦功をたてた。承久の乱の時長清は東山道の大将として軍功をたて、乱後阿波の守護職に任じられた。阿波守護職は子長経を経てその子長房の子孫に伝えられて元弘に至るまで続き、その一族は阿波に勢力を培った。一方長経・長忠に連なる嫡流は、長経が将軍源頼家の近臣として比企氏の乱に連座した関係から北条氏に疎んぜられ、大勢力となる事はなかった。しかし由緒ある御家人として武田氏と並んで幕府に仕え、特に騎芸乗馬礼法の家として重んぜられた。元弘の乱の時貞宗は北条氏に従って笠置攻めに参加したが、のち足利尊氏の挙兵に応じて軍功をたて、信濃守護に任じられ、以後信濃に地盤をすえた。室町時代の小笠原氏は伊那伊賀良荘・信濃春近領など北条氏の遺領を守護領として信濃支配に乗り出したが、当時信濃には村上・諏訪・高梨らの豪族が蟠踞し守護に反抗したので、領国経営は意に任せず、守護職は一時斯波氏・幕府直轄になるなど、その地位は不安定なものであった。さらに嘉吉の内訌を契機として、家中は府中・伊那松尾に分裂して抗争を繰り返した。のち伊那松尾系は信嶺の時武田信玄に属し、府中系は長時の時信玄と戦い敗れて越後長尾景虎のもとに走った。のち両系共織田信長・徳川家康に仕え近世にはそれぞれ大名に取り立てられた。


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