9月11日(火曜日)
茨木城址を見に行った
茨木城の文献上の初見は、応仁の乱で東軍の安富元綱方に属していた野田泰忠が応仁元(1467)年5月20日、「摂州茨木之城に陣を構えた」と『野田泰忠軍忠状』で見える。
茨木城の築城については、よく解っていないが3説有る。
1.建武年間(1334ー36)に楠正成が築いた。
2.安富氏が築いた。
安富氏は、鎌倉時代から戦国時代に活動した武将・吏僚の一族。鎌倉時代中期から幕府奉行人として現れ、室町時代中期以降は細川京兆家の重臣として現れる。讃岐国東方守護代家。
3.福富氏が築いた。
戦国時代は茨木氏が城主だった。
茨木氏は、摂津国島下郡茨木を本貫とした国人領主で、室町時代には茨木城を中心とした地域で活躍した。代々室町幕府に仕えていたと見られる。
茨木伊賀守長隆の時、細川晴元に仕え栄達した。しかし、江口の戦いで晴元が敗北すると長隆も没落する。茨木佐渡守重親の時に織田信長に臣従したが、1571年摂津三守護の一人和田惟政とともに池田氏を攻撃した際に、白井河原の戦いで敗北を喫し、重親は荒木村重に討ち取られ、まもなく茨木城も落城した。この戦いで茨木方の300名以上が討死にし、茨木氏は滅びた。
その後一旦、茨木城には村重の子村次が入ったが、実質的な城守は中川清秀で、この時に修復と大規模な拡充を実施、天正5(1577)年には清秀が正式に茨木城主となった。
同10年の本能寺の変後は豊臣秀吉に仕えていたが賤ヶ岳の戦いで戦死、同14年、清秀の子の秀政は数々の功績が認められ、播磨三木城へ6万5千石に移封し、茨木の地は秀吉の直轄地となり、安威城の城主であった安威了佐、河尻秀長が代官として茨木城に詰めていた。
関ヶ原の戦いの翌慶長6(1601)年に、片桐且元、貞隆兄弟が茨木城の城主となる。大坂夏の陣後、且元は4万石、貞隆は1万6千400石を与えられそれぞれ竜田藩主、小泉藩主となった。その後江戸幕府は「一国一城令」を発布、これにより摂津では高槻城のみが残り、且元の子片桐孝利は龍田城へ、貞隆は小泉城へ移って行元和2(1616)年茨木代官の間宮三郎、立会人の城忠兵衛のもとで茨木城は取り壊された。
茨木小学校に復元された茨木城の櫓門
片桐氏の家紋、丸に鷹の割羽
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