9月3日(月曜日)
今ゴロゴロ鳴っている
武田氏研究、現在182ページの14万8435文字だそうです
ようやく3分の1終わった( ̄▽ ̄)=3フー
論文読んでて、気になった所を書き出してるんだけど、字が汚くて自分が書いた字が読めないで、またその論文読み直したりしてる(´0ノ`*)オホホ
明智光秀が母方の武田氏を頼って若狭へ赴く、と言う記事を見つけ調べたら、光秀の父とされる光隆(光綱)の妻は、武田信豊の娘とあった。
しかし光隆(光綱)は1497年生まれ、光秀は1528年生まれとされている。
一方武田信豊は1514年生まれ。
若狭武田氏の娘が妻というのが事実なら、信豊の姉というのが妥当か
もしそうなら、光秀の母方若狭武田氏、当時の当主武田元明の母は将軍義晴の娘。当時織田信長に対抗しうる勢力と思われていたのが、甲斐武田勝頼。
光秀の母系を中心に、面白い事が起こりうる構図だと思った。
ただ甲斐武田氏が予想以上に早く滅んだのが、誤算だったのでは・・・
フロイスの明智光秀評
「彼は、裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また、友人たちの間にあっては、彼は人を欺くために72の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していた」
を読んで、ふと思った
だから元明は、羽柴秀吉から自害を命じられたのかなぁ~って
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