5月3日(火曜日祝日星空


『勝沼氏館跡』、ここも20年ぶりチョキ

民家が迫っててビックリビックリマーク

20年前は綺麗で雄大だったのに・・・・叫び


【勝沼氏】 2007年11月10日に記事を再掲載

           http://ameblo.jp/katsuyori/entry-10054796058.html

勝沼信友(五郎・左衛門大輔) ?-1535

武田信縄の2子。山梨郡勝沼に館を構え、勝沼氏を称した。

1535年北条氏綱との戦いで戦死。1520年の岩殿七社権現の棟札の筆頭に「武田左衛門大輔信友」とある。


勝沼信元(五郎・丹波守) ?-1560

勝沼信友の子。天文年間(1532-54年)には武田晴信の重臣として信濃攻略戦に活躍。1542年信濃大門峠の合戦の際、諏訪の城に布陣。1546年上杉憲政と笛吹峠で戦った時は板垣信方に属して参戦。1547年信濃海野平における長尾景虎との合戦に陣備えの御後として出陣。1550年信濃深志攻略その他に出陣。1553年信濃桔梗原の小笠原長時との合戦に出陣。

1560年11月謀反を疑われ山県昌景に攻められ殺された。信元の謀反の原因は、1560年の上杉景虎の関東侵攻ではないかと思われる。現に信濃では先方衆の仁科・海野・高坂などの諸氏が景虎に属した。信元も関東の大石・藤田・三田等の諸豪族に呼応したのではないかと考える。


勝沼信就(日閑)

勝沼信友の子。父の死後僧となり日閑と号して、相模国今井村(現茅ヶ崎市)に日蓮宗の信隆院を起こして住居した。


加藤信厚(丹後守・信原)1540-1582

勝沼信友の2子。上野原の加藤氏を継ぎ上野原を守る。1582年3月武田勝頼が新府を落ちて東に向かったことを聞くと、これに合流しようとして笹子峠へ向かったが、小山田信茂の家臣に阻まれ、引き返し、今度は田野に抜ける大菩薩峠を目指して武蔵の北嶺を越えようとしたが、ここも北条軍に遮られ、やむなく武蔵の箱根ヶ崎に引き退いた所、別の北条軍に攻められ、12日武蔵箱根崎で一族ことごとく戦死した。




四郎勝頼の京都祇園日記-勝沼氏館跡4

四郎勝頼の京都祇園日記-勝沼氏館跡

四郎勝頼の京都祇園日記-勝沼氏館跡3

四郎勝頼の京都祇園日記-勝沼氏館跡2

四郎勝頼の京都祇園日記-勝沼氏館跡9

四郎勝頼の京都祇園日記-勝沼氏館跡6

四郎勝頼の京都祇園日記-勝沼氏館跡8

四郎勝頼の京都祇園日記-勝沼氏館跡7

四郎勝頼の京都祇園日記-勝沼氏館跡5


旧勝沼町域を東西に貫流する日川右岸の急崖である標高418mの河岸段丘上に位置する。勝沼氏は甲斐守護武田信虎の弟である信友にはじまる武田氏の親族衆(上記参照)で、東方である郡内領小山田氏の目付として、また峡東地方の支配を任されていた。館跡も甲州道中に面し郡内へも近く、峡東を一望できる位置にある。


昭和48年に県立ワインセンターの建設候補地として調査が行われ、館跡の発見により内郭部が前面保存となり、1977年にかけて行われた7次の発掘調査によりほぼ全容が解明された。

館は主郭部と外郭部から構成され、主郭部は東西90m、南北60mで、北側と東側に内堀が見られる。生活遺構が多く、礎石のある建物址が23棟ある。縁石を用いて構築された水路址は幅30cmと45cmのものがあり、井戸と推定される水溜址と連結している。址は土塁を利用したコの字形で、新旧の2時期があり、礎石があることから上屋が存在していたとも考えられている。また、無遺構部分から広場址、庭石から庭園状遺構、ピットに焼土が充満した小鍛冶遺構なども見つかっている。

また、館跡周辺には加賀屋敷や奥屋敷などの地名も残っていたが、館跡の発掘調査により周辺の街路や町割など旧跡の実態も明らかとなった。

2008年、勝沼氏館内南西側工房跡から出土した多くの土器片から、金を検出したと山梨県立博物館から発表がありました。これは大きな発見で、金の製錬が館内工房で行われていたとみられます。戦国武将の館内で金の工房が確認されたのは初めてで、通常金山は金山衆と呼ばれた集団が大名の許可を得て、開発管理していたと見られていた。しかし今回のこの発見で、金山から産出された金は信頼できる家臣により直接管理され、さらには館内で厳重な管理の下貨幣に加工されていたと考えられるようになった。この発見は、戦国大名の権力を知る上でも貴重な発見である。


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