11月10日(土曜日)
昨夜は疲れていて祇園に出没出来ませんでした(´□`。)
今回は武田信虎の兄弟を取り上げました。
吸江英心 ?-1555
武田信縄の子。信友の兄の可能性有り。
大泉寺開山の天桂禅長の弟子。1519年信虎が甲府に移ると天桂を開山として、その菩提寺として大泉寺を建立した。
勝沼信友(五郎・左衛門大輔) ?-1535
武田信縄の2子。山梨郡勝沼に館を構え、勝沼氏を称した。
1535年北条氏綱との戦いで戦死。1520年の岩殿七社権現の棟札の筆頭に「武田左衛門大輔信友」とある。
桜井信貞
武田信縄の4子。西山梨郡桜井に住み、桜井氏を称した。
勝沼信元(五郎・丹波守) ?-1560
勝沼信友の子。天文年間(1532-54年)には武田晴信の重臣として信濃攻略戦に活躍。1542年信濃大門峠の合戦の際、諏訪の城に布陣。1546年上杉憲政と笛吹峠で戦った時は板垣信方に属して参戦。1547年信濃海野平における長尾景虎との合戦に陣備えの御後として出陣。1550年信濃深志攻略その他に出陣。1553年信濃桔梗原の小笠原長時との合戦に出陣。
1560年11月謀反を疑われ山県昌景に攻められ殺された。信元の謀反の原因は、1560年の上杉景虎の関東侵攻ではないかと思われる。現に信濃では先方衆の仁科・海野・高坂などの諸氏が景虎に属した。信元も関東の大石・藤田・三田等の諸豪族に呼応したのではないかと考える。
勝沼信就(日閑)
勝沼信友の子。父の死後僧となり日閑と号して、相模国今井村(現茅ヶ崎市)に日蓮宗の信隆院を起こして住居した。
加藤信厚(丹後守・信原)1540-1582
勝沼信友の2子。上野原の加藤氏を継ぎ上野原を守る。1582年3月武田勝頼が新府を落ちて東に向かったことを聞くと、これに合流しようとして笹子峠へ向かったが、小山田信茂の家臣に阻まれ、引き返し、今度は田野に抜ける大菩薩峠を目指して武蔵の北嶺を越えようとしたが、ここも北条軍に遮られ、やむなく武蔵の箱根ヶ崎に引き退いた所、別の北条軍に攻められ、12日武蔵箱根崎で一族ことごとく戦死した。
ひろっさん、どうでしたご要望に応えたよ~
単に祇園ネタが無かったからと言う声も有るが・・・
今夜は祇園に出るぞ~出られるかなぁ・・・どうだろう・ (;^_^A
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