8月25日(水曜日晴れ


昨日は良く寝た~起きたら汗だく、腹減ったぁ~


いよいよ『武田勝頼土佐の会』で盛り上がってる土佐武田氏です。

高知県吾川村の『ひょうたん櫻』(推定樹齢500年)は、武田勝頼が故郷の甲斐から持ち込んだ桜を植えたと伝えられている、のを知っていたのですが、まさか『武田勝頼土佐の会』が有るとは知らなかった汗


土佐武田氏


織田信長に攻められた武田勝頼は、上野国利根郡山分大谷に隠れ住んだ。のち諸国を廻り土佐国の香宗我部氏を頼って土佐へ入り大崎玄蕃と称した、と言う。大崎氏の系図は川井神社(川井八幡宮)神官岡林家に伝えられている。この中に「正八幡宮天正十四丁亥六月十五日 願主 大崎玄蕃頭源勝頼建立 神主 岡林甲斐守源勝貞」とある。この大崎玄蕃と言う人物は系図上慶長14年8月15日、64歳で死去とある。

高知県吾川村の『ひょうたん櫻』(推定樹齢500年)は、武田勝頼が故郷の甲斐から持ち込んだ桜を植えたと伝えられている。

ここで大きな疑問が生じる。玄蕃頭は勝頼を裏切った穴山信君が称したもので、わざわざ裏切り者の称した玄蕃頭を称しただろうか?又当時の香宗我部氏の当主は親泰で、長宗我部国親の子であって武田氏とはまったく関係ない。

また、同時代に福島正則の重臣に鞆城代を務めた大崎玄蕃がいるが、この大崎玄蕃が正則改易後土佐に移り住んだと考える方が自然であろう、と思ってたが、この大崎玄蕃は正則改易後徳川頼宣の寄合衆として、8135石で仕えている。



『武田勝頼土佐の会』に上記の①~④を質問した。


①上野に隠れ住んでいたのなら、何故真田昌幸や妹婿の上杉景勝に頼らなかったのかはてなマーク

『真田昌幸等を頼らなかった理由として、古くから考えられておるのは、織田信長の戦力は十分にある事を知っており、真田を頼れば、そちらへ攻撃が集中する状態であり、真田の城では持ちこたえられないと考えたと思われます。真田昌幸をそのような事態に追い込むのは不本意であったものと考えられます。
 上杉景勝を頼る場合、北条氏政が織田との協定を破ってまで武田の再興に協力したかどうかは疑問なのです。
 これらは子孫の方の考察によるものと私は考えており、実際はどのような事を勝頼が考えたのかは不明なのであります。』


昌幸は勝頼を迎える準備をしてたし、景勝を頼るのに北条氏政の織田信長の協定は関係ない(意味が解らない)。上野まで逃れたのであれば近臣の昌幸や妹婿の景勝を頼るのは自然の行動と思われるのだが・・・。それに箕輪城には勝頼側近の内藤昌月も居たし、海津城には春日信達も居た。

現に、3月2日勝頼家臣が春日山城に赴いて援軍要請を行っている。

5日に景勝の援軍は信濃牟礼に着陣している。

7日景勝は市川信房に書状を送り、勝頼を保護する意向を伝えている。

このような状況だから、勝頼が上野まで逃れたのなら必ず越後に赴いたと思われる。(11日に勝頼は自刃する。)

土佐の会の考え方は、平和ボケしている現在の考え方であり、戦国時代人の考え方を理解していない。




②当時の香宗我部氏は既に武田氏とは関係なく、長宗我部氏は織田信長と好を通じ、元親の嫡男信親の〝信〟は信長の信で有り、この友好関係の中敢えて勝頼を匿うとは考えられない。

『まず、勝頼が土佐へ来られた背景に、長宗我部氏との関係なくして来られなかったという事です。
系図には、香宗我部氏を頼り云々と書かれております。
勝頼が落ち延びた当時は、香宗我部氏は長宗我部元親の弟である親泰が実権を持っており、どちらかといえば長宗我部氏の元で動いていたわけです。
 伝承では、親泰の信頼をおく者(もしくは親泰本人?)が、武田勝頼と通じていたと言われております。
 その者の手引きで、土佐へ来たと言われておりますので、勝頼達が逃れた上州へその者が来ておった可能性があると考えられております。
 上州では、信勝は市川家に匿われたという記録がありますが、市川家には、明智光秀から、信長を討つという内容の密書が届いており、それに乗じて信勝が旗を上げた形跡まであるとの事ですが、当会では、(市川家)そちらへ足を運んだ事はなく、未確認であります。
 そしてこれはまだ、あまりに突拍子が無いと思い全く公開もされていない内容なのですが、本能寺の変の時に、勝頼、そして信勝も京都に居たと言われております。(この本能寺の変に関するコメントは避けて頂きたく思いますが、貴殿の推測の一助として挙げさせて頂きました)
 明智光秀といえば、現在の研究では、長宗我部元親と光秀は土岐氏を軸とした畿内・四国連合体を構想していたと考えられています。
 元親は、正室は土岐一族の者、側室に、明智光秀の妹の娘等々と、元親は土岐氏との関わりなしには考えられません。
 話しを元に戻します、その手引きの者と共に、伊豆の国の初根ヶ原に向かい、甲斐の武田氏が、安芸の武田氏との航路として使っていた舟で富士川を出て、紀伊半島を周り、瀬戸内海に入りまして、(伝承では大阪~京都へ)、後に瀬戸内海から現在の四国の新居浜に四国への第一歩とします。
(この航路は、安芸武田の地との交易が行われていたと云われております)
 土佐へ第一歩を記したのは、大豊町そこから、香宗我部氏の本拠地である現在の香美市(香美郡土佐山田)の寺に招かれます。
 さらには、長宗我部氏に仕えておった片岡氏の本拠地である、川井村へ向かわされます。
 その土地なのですが、長宗我部氏と関係の深い土地です。まず、菩提寺を建てた寺村は、長宗我部氏、香宗我部氏に仕えておった寺村氏の土地です。
 大崎八幡宮を建立した大崎は、長宗我部氏の分流である中島家の土地です。
 伝承では、中島氏に大崎の天然の要害である城を譲り受けたとの事です。
 よほど、勝頼達を受け入れるメリットというものが無ければ、そのような事は実現しなかったでしょう。
 現在でも、中島氏の末裔の方々がその伝承を受け継いで来ております。
 ただ、この大崎という土地、またかなり近郊には、甲斐の小笠原氏の子孫、甲斐の井上氏の子孫等が勝頼達が来るだいぶ以前より来て住んでおり、その関係も古くから囁かれております。
 その後に、戸次川の戦いに、長宗我部氏、片岡氏らと共に参戦。落ち延びた来た家臣も失った戦いです。
 このように、他にもあるかと思いますが、長宗我部氏との関わりなしには、大崎という土地に住むことも無かったものと考えられております。』


当時、長宗我部元親が織田信長に逆らってまで武田勝頼を匿うメリットは無いと思われるのだが・・・・。


③蕃頭は勝頼を裏切った穴山信君が称したもので、わざわざ裏切り者の称した玄蕃頭を称しただろうか?

『たしかに、穴山信君と勝頼の仲は悪かったと、今の時代では考えられております。
 まず玄蕃という名前を称した理由が定かでは無いのですが、玄蕃寮という職掌とも考えられております、勝頼のその場所での役目として、玄蕃という名が与えられたのか、それとも自ら称したのかは分かりません。
 あと、玄蕃踊り、玄蕃太鼓などに見られますように、勝頼が関わったとされるものには、その「玄蕃」という名前がつきました。これは勝頼が病鎮めや、死者の霊を弔う「玄蕃信仰」だという説もあります。
 その玄蕃信仰について、長野県にはそのような伝説も残っており、もう少し研究が必要かとも思います。
 それと、伝承ではありますが小山田信茂という人物が、勝頼達を助けたという云われも1つ挙げておきたいと思います。定説とは全く違う評価になりますので、あくまで土佐の説として見て頂ければと思います。』


だから、何故穴山信君の称した玄蕃を称したの?って答えが無いですやんσ(^_^;)

それに同時代に実在した、福島正則の重臣大崎玄蕃と同じ名を名乗ったのも不思議です。

大崎玄蕃=武田氏関係の人が事実なら、穴山玄蕃頭信君(もしくは穴山家家臣の1人)は宇治田原で殺害されず甲斐源氏ゆかりの人達が多い土佐まで逃れたが、勝頼を裏切った為受け入れられないと思い、武田勝頼になりすました。と理解したい。



④逆算すれば、確かに武田勝頼の生年ですね。

『系図からは、慶長14年(1609)に没したとなっております。
 これら年号は全て、系図に書かれておるものなので、先祖、兄姉や家族に関わる全ての詳細が系図には記されております。
 なお、松姫に関してのみ、系図から抹消されてしまっております。

 以上が回答となります。
土佐の武田氏の研究の一助になれば幸いです。
 土佐には武田に関するものが多いのですが、紙漉技術、治水技術などは、山内氏が土佐に入ってきてより、旧武田家臣を多くやとった背景もあります。
 さらには武田の森といわれる場所、武田家にゆかりのある方が多いのも、これからの研究対象として面白いところであります。』


納得できる説明は無いなぁ・・・(゚_゚i)

聞けば聞くほど、土佐生存説は無いビックリマークと思う内容なんですけどσ(^_^;)ポリポリ



結論として板垣退助(武田信玄重臣板垣信方の子信憲の子乾正信が初代と伝わる)、岩崎弥太郎等甲斐武田氏関係の苗字が土佐藩に多い為の伝承と思われる。

又、近藤安太郎氏は『系図研究の基礎知識』の中で、「近世に土佐で武田氏といっているのは多く香宗我部氏の一族とのことである」と論じている。



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