2月13日(土曜日)
京都武田氏
武田公信(兵庫頭・薩摩守) 再掲載
武田信武の5子。1352年の新田義宗との合戦に父信武に従って出陣している。
1353年11月4日付け足利義詮より安芸国人金子氏に与えた感状の中に「今度関東より、武田薩摩守に同道せしめ、馳参之条」とあって、安芸国から参陣している。氏信とともに安芸国に残留したのであろう。
武田武明(兵部少輔)
武田公信の子。
武田満信(五郎・兵庫頭)
武田武明の子。実名の〝満〟は足利義満の偏諱とみられる。14年間在京奉行を勤めた。
武田持信(五郎・兵庫頭)
武田満信の子。実名の〝持〟は足利義持の偏諱とみられ、やはり在京奉行を勤めた。
武田持明(中務大輔)
武田満信の2子。実名の〝持〟はやはり足利義持の偏諱か。
武田政明(小次郎・中務大輔)
武田持明の子。実名の〝政〟は足利義政の偏諱か。
武田尚信(彦五郎・民部少輔入道・招雲斎道鑑)
武田持信の子。実名の〝尚〟は足利義尚の偏諱とみられ、やはり在京奉行を勤めたのであろう。甲斐入国の時期は不明。1540年2月に自邸に冷泉為和を招いて和歌会を催している。1543年屋敷からの出火が躑躅ケ崎館に類焼している。これは尚信の屋敷が館の至近にあったことを示すもので、家格の高さをうかがえる。
武田信喬(五郎・兵庫頭)
武田尚信の子。
武田彦五郎
武田信喬の子。尾張より帰陣する際に船が沈み、溺死したという。冷泉為和は1539年10月尚信に彦五郎の死を悼む歌を贈ってる。
武田彦五郎
永禄~天正期にかけて、武田一門として活動する彦五郎が所見され、信喬の2子ないしは彦五郎の遺児と思われる。円昌坊教雅の書状には、勝頼、信廉に続いて三番目に彦五郎が登場し、穴山、小山田等の重臣よりも上位を占めている。
次回は甲斐武田氏総集編①源義光~武田信義兄弟です