2月4日(木曜日)
昨日八坂神社の芸妓の豆まき行って、祇園の中に有るコンビニかで恵方巻き買って帰ろうと思ってたのに、体調が思わしく無く1日寝てました
今年になって、なかなか本調子にならないなぁ
体調崩してから朝立ちもしないし・・・。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。ウワーン!そこ
芸妓の豆まき写真掲載の予定だったのに・・・歴史に変更どす
武田信義(修理大夫) ? -1338
甲斐の武田一族と思われる。八戸南部師行の目代として陸奥国下北へ遣わされ、1334年頃蠣崎城を築いた。1337年8月北畠顕家の上洛軍に師行と共に参加、翌年5月和泉国石津浜で高師直軍に敗れ、師行と共に戦死した。
武田信晨(五郎)
武田信義の子。蠣崎城主。
武田信吉(五郎)
武田信晨の子。蠣崎城主。
武田信道(治部丞)
武田信吉の子。蠣崎城主。
蠣崎信純(五郎・蔵人)
武田信道の子。蠣崎城主。室は新田義純の妹。
1448年5月順法寺城主新田義純を謀殺。後にこの事を八戸南部政経につきとめられ、1457年蠣崎城を攻められ落城、渡島の松前に逃れた。
蠣崎季繁(修理大夫) ? -1462
1443年若狭から上ノ国に渡り、館を勝山に築いた。子が無く安東政季の女を養女とし、それに武田信広を配して婿とし、洲崎に館を築かせ独立させた。
武田信広 1431-1494 (再掲載)
伝武田信栄の子。関連の同時代の史料を欠き、具体像を確定しがたいが、松前藩側の近世記録『新羅之記録』『福山秘府』『松前家記』などにより、蝦夷島に拠る松前氏の元祖として強調される人物である。
若狭守護武田家の初代武田信栄の遺狐といい、21歳の時叔父の若狭守護信賢のもとを離れ、家子佐々木繁綱・郎等工藤祐長らを引具し、関東を経て陸奥国糠部郡宇曾利郷田名部に至り、さらに1454年下国安東政季を奉じて蝦夷松前に渡島、同族出身という蝦夷上ノ国花沢館主蠣崎季繁の女婿に迎えられたという。そして、1457年アイヌ一斉蜂起の際、酋長コシャマイン父子を射殺するなど、乱鎮圧に武功を発揮し、その声望を高めたとされている。この系譜には異議をはさむ見解もあるが、アイヌ蜂起の発端となった志濃里館跡や信広の拠点となった上ノ国勝山館跡の発掘調査も近年行われ、信広が軍事的才能を持って蝦夷地館主たちの指導者的地位に就き、武装商人の頭目として若狭・蝦夷地間の交易船を差配した等々は、事実とみられるようになっている。
網野善彦氏は『日本中世社会における武田氏』の中で「津軽半島の十三湖のほとりの大きな港十三湊を本拠にしていた有力な豪族安藤氏は、15世紀に若狭の羽賀寺の造営を援助しており、若狭と十三湊とは不可分の関係を持っていたことが、室町時代の中頃には確認できる。そのルートに乗って、若狭国の武田氏の一流が北海道に行ったと考えても何の不自然は無い。」と述べられている。
蠣崎光広(彦太郎・宮内少輔・若狭守) 1456ー1518
武田信広の子。母は蠣崎季繁の女。
1513年松前大館を攻め、秋田安東氏の代官、相原彦三郎季胤、村上三河守政儀を討つ。翌年蝦夷において、安東氏一門に準ずる地位を確立し、上ノ国花沢館より松前大館に移る。1515年アイヌの酋長ショヤコウジ等を打ち破る。
蠣崎義広(新三郎・良広・若狭守・民部大輔) 1479ー1545
蠣崎光広の子。1528年アイヌが蜂起し義広自ら槍をふるって撃退する。1532年酋長タリコナを謀殺した。
蠣崎高広 1482ー1521
蠣崎光広の2子。上之国勝山館主。
蠣崎基広 ? ー1548
蠣崎高広の子。上之国勝山館主。基広は館主の地位に不満を持ち、1548年季広の上ノ国巡視の際、これを毒殺しようとして発覚、誅された。
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