3月23日(火曜日雨


今から解熱剤飲んで、難波でお仕事です電車地下鉄(w_-;

体弱ってる時に雨降るなよ~

ず~と寝てたので、安芸武田氏総集編ですチョキ


安芸武田氏

甲斐武田信義の子信光は甲斐・安芸両国の守護を兼任。その後信時・信宗・信武が両国の守護に任じられた。信時は1274年の蒙古襲来に際し、初めて安芸国に下向し在国した。この時期『熊谷文書』によれば佐東郡地頭武田泰継が三入庄地頭熊谷氏と川船の通行税、鵜船の税収、倉敷などの事で争っている。この泰継はどの武田系図にも現れないが、信時の弟信泰の子と考えられている。

信武も安芸国に在国し次男氏信も在国、国内で転戦した。

氏信は初め安芸国守護代、ついで安芸国守護となったが、1367年守護職を解任された。しかし信在・信繁と分郡守護の座を確保し、信繁の長子信栄は若狭国守護職を与えられ、弟信賢は若狭国守護と安芸分郡守護を兼務した。

1508年安芸国在国の信繁の末子元綱の子元繁が若狭武田氏に反して安芸国で自立し、以後この系統が安芸国守護として継承していった。



武田直信(四郎・左馬助)

武田信武の4子。『甲斐信濃源氏綱要』によれば、母山県蔵人公頼女とある。

1340年吉川氏を率いて伊予忽那島を攻める。

安芸国の守護職を信武から譲られたが、直信の死によって信武が復職、ついで氏信に受け継がれた。

京都で卒す。


武田信綱(伊豆守・左馬助)

武田直信の子。


武田信賢(治部少輔・大膳大夫)

武田信綱の子。『武田系図』に芸州牢人とあり、『武田法印系図』には伊予国に赴き、後甲斐国へ帰るとある。


武田信光(備前守・兵部少輔)

武田信賢の子。『武田系図』に予州住とあり、『武田法印系図』には予州味和崎に住むとある。


武田信治(修理大夫)

武田信光の子。伊予国に住む。河野四郎通直に属す。

1585年通直、小早川隆景と湯築城で戦い降伏。通直は安芸国竹原に去った。翌年の九州出兵の際は仙石秀久に属し、豊後国戸次川の戦いで島津軍に大敗を喫した。戦後高野山へ逃れたが、のち許され織田信雄に仕え京都で死す。


武田信重(徳丸・道安・法眼・法印) 1584-1665

武田信治の子。同族の若狭武田氏出身の建仁寺永雄長老に従い学び、医を業として京都に住み、浅野幸長に仕えた。

1623年後水尾天皇を診察し法眼に就く。皇太后近衛前子も診察し、投薬を施す。

1631年徳川秀忠を診察し、翌年には徳川家光を診察した。

1644年紀伊徳川頼宣の病気を治し法印に叙せられた。のち尾張徳川義直にも投薬を施す。

1656年東福門院(徳川秀忠女和子)に附属せられ月俸百口を賜う。


武田信勝

武田信治の2子。1641年後水尾天皇を診察した。


武田信良(勝丸・勝三郎・泰安・道安・法印) 1624-1672

武田信重の子。1634年二条城において徳川家光に拝謁。のち江戸にて家光に仕えた。

1665年12月遺跡を継ぎ、父についで禁裏に仕え、のち法印に叙す。


武田信成(次郎・杏仙・長春院・法眼・法印・兼山) 1626-1705

武田信重の2子。1651年徳川家綱に拝謁。

1666年召されて番医となり、翌年蔵米200俵を賜う。

1673年明正天皇に附属せられ、在京料として新恩200俵を賜う。翌年法眼に叙した。


武田信光、信治の時代に武田信勝、信吉が活躍しているが、系図には現れていないが直信の流れと思われる。


武田信勝(近江守)

信濃守とも称す。伊予の河野氏に属し、1562年竜門山城主となる。

1582年11月来島通総に攻められ落城し、討死したという。同年12月小早川隆景に攻められ討死したとも伝わる。


武田信吉(真三郎)

武田信勝の子。福島正則に召し出され、郡代官を務めた。



武田氏信(安芸守・伊豆守・信頼) ? - 1379

武田信武の3子。『甲斐信濃源氏綱要』によれば「母、二階堂出羽守行藤女、応長2年正月2生於甲府、康暦2年5月8日卒」とある。

父とともに安芸国に在住し、北朝方として安芸国内で転戦している。1337年伊予国和気浜にて土居通重、忽那氏と戦い敗れている。

氏信ははじめ安芸国守護代、ついで1345年12月安芸守護となった。1350年5月28日、南朝方の西条一族の籠もる賀茂郡西条郷の城を陥した。次いで吉田荘から毛利親衡を追い、さらに山県郡の寺原時親らの拠る寺原・与谷両城、山県為継・壬生道忠らの籠もる猿喰山城を攻略し彼らを追った。しかし、又反旗を翻したので、翌年4月17日に安北郡禰村城、同月29日は高田郡内部城を陥した。さらに6月15日から毛利親衡の籠もる高田郡坂城を攻めたが、6ヶ月間落ちず、11月8日足利直冬方の今川頼貞が石見国から毛利の援軍に駆けつけ、氏信を破った。1352年氏信は吉川実経を率い、5月毛利元春の内部城を落とし、元春は吉田城に逃れたが、6月に降伏した。

幕府の命で大内弘世が1366年に石見国の足利直冬方を平定し、次いで9月頃安芸国に進出し、翌10月には寺原安芸守、12月には吉川経任が氏信に属した。

氏信の安芸守護としての微証は1367年12月以降は見えなくなる。この頃に守護職を解任されたのだろう。

近藤安太郎氏は『系図研究の基礎知識』の中で氏信が信武の嫡子、太郎氏信であると説いている。

安芸の守護職は信武から一旦弟の直信に譲られたが、直信の死によって信武が復職、ついで氏信に受け継がれた。


武田信在(治部少輔・伊豆守)

武田氏信の嫡子。『甲斐信濃源氏綱要』によれば、母は小笠原信濃守宗長女とある。1379年父氏信が没し家督を継ぐ。

1397年安芸国佐東郡の分郡守護が確認されている。1398年佐東郡の厳島神社を押領し、幕府から返還を命じられる。


武田信守(刑部大輔・伊豆守)

氏信の2子。1412年佐東郡、山県郡の分郡守護となる。『系図研究の基礎知識』では信在の子となっている。


武田信繁(伊豆守・伊豆入道長光) ? ー1450

信守の子。『甲斐信濃源氏綱要』では、母は京極道誉女とある。1430年閏11月、安南郡、山県郡の郡守護が確認されている。


武田信栄(彦九郎・治部少輔) 1413ー1441

武田信繁長子。『永享以来御番帳』の御相伴衆の中に「武田伊豆九郎信栄」として名を載せている。

1440年5月15日、將軍足利義教の命により、大和征伐の陣にあった若狭国守護一色義貫を討ち、その功によって同年若狭守護となった。しかし、義貫の家臣若狭守三方忠治に刺された傷が癒えないため没したという。

1440年6月、尾張国知多郡の分郡守護が確認されている。

                                    ⇒若狭武田氏



武田元綱(安芸守) ? -1505?

武田信繁の4子。安芸守護代。

1457年4月、大内教弘に攻め込まれ敗北。吉川之経の奮戦により銀山城落城は免れた。しかし安芸南部と芸予諸島の大半を奪われた。1465年再び大内氏に攻められ銀山城に籠城し戦ったが、毛利・小早川両氏の援軍で辛うじて大内軍を撃退した。この勝利で芸南地方も回復した。

1466年伊予国へ攻め入り忽那通光と戦う。

1467年京都等持院で畠山義就と戦う。1471年細川方の兄、信賢・国信に反抗し、大内方として挙兵し兄弟争う。1481年大内氏の仲介で兄国信と和解した。1492年国信の死により、安芸分郡守護職を実質承継した。


武田元繁(太郎左衛門・刑部少輔) ? -1517

武田元綱長子。安芸守護。

1492年将軍足利義稙の佐々木高頼征伐に際し、若狭の武田信親とともに出陣し武功をあげる。

1508年本宗家若狭武田家から独立し、同年大内義興が足利義稙を推戴して上洛した際、同行した。1515年将軍足利義稙の命で帰国、尼子氏に備えたが、義興の留守をつき周辺の国人領土を略奪した。同年己斐城を攻めたが、大内義興の命をうけた毛利興元に背後をつかれ、引き返した。

1517年2月山県氏を討つ。同年10月有田城主小田信忠が元繁に背いた為、元繁は有田城を攻めたが、援軍毛利元就のために、熊谷元直が討たれ、戦闘中に流れ矢が元繁に当たって戦死した。


武田光和(太郎・刑部少輔)1502-1534

武田元繁長子。室は吉川興経の妹。

光和の生年については明らかでないが、周防武田氏に伝わる「錆地三十二間筋兜」(東京国立博物館保管)の鉢裏に「明珍信家花押、永正16年巳卯8月吉日」の切銘が有り、これは光和が18歳の折り、大内・毛利氏と雌雄を決する記念として上州白井住明珍信家に具足一式を制作させたものである。これによって逆算すると文亀2年(1502)生まれとなる。

1524年大内義隆に居城銀山城を攻められるが屈せず、1527年にも攻められる。

1533年熊谷信直の籠もる高松城を攻めた。

出雲の尼子氏と結んで大内氏に抵抗し、そのため銀山城はしばしば大内氏の来攻を受けた。1528年9月から1534年に至る7年間に大内義隆と21回に及ぶ対戦を記録しているが、ついに決着を見ることは出来なかった。

光和の死後、武田家の老臣品川氏と香川・己斐両氏は対立し、品川氏が香川氏の居城八木城を攻めている。これはおそらく信実派と繁清・信重派とが争ったと考えられる。『日本史総覧』では1540年6月9日卒とある。


武田小三郎(刑部少輔・宗慶)1524-1597

武田光和の3子。室は安国寺恵瓊の女と伝えるが、恵瓊より年上の為事実なら後妻か?1541年銀山城落城後、八木城主香川光景に匿われ、吉川氏を通じて毛利元就に保護を頼んだ。のち元就の側近となり、1555年厳島に陶晴賢を襲撃した際には元就の身辺にあって活躍した。

周防の欽明寺に光和の供養塔がある。「営五十回忌法要 第三子 刑部少輔武田小三郎」「天正癸未歳三月八日 欽明寺住職四世日秀上人施行」とある。

小三郎の子孫は代々毛利氏に仕え、主に幕末に活躍した。

勝海舟に望まれ1864年海軍繰練所教授となり、海舟の片腕として活躍した武田祐治(号路遊)、その子武田為十郎(号松山)は1863年三条実美ら七卿の長州落ちの際、特に請われてその護衛の任にあたり、さらに孝明天皇の加茂行幸に供奉した。

『学園創設180周年呉武田学園』に収められている。「周防武田氏系図」では小三郎の子光信は大坂陣で豊臣秀頼と共に57歳で戦死してる事になっているが、毛利氏の家臣が豊臣方に加担する事はあり得ず不思議な事である。


武田信実(刑部少輔) ? -1555?

若狭武田元光2子。光和没後、光和の弟伴下野守の子信重と家督を争う。

1541年大内氏の命を受けた毛利氏に攻められ、銀山城は落城、信実は尼子氏家臣牛尾幸清と共に出雲国に出奔した。のちに若狭武田家を頼ったと伝えられる。


伴繁清(下野守) ? -1543

武田光和の弟か?伴氏を称した。1543年毛利元就に滅ぼされる。

1397年8月18日付けの室町将軍家御教書には、武田伴遠江五郎が佐東郡内の厳島神領などを押領しており1404年9月23日の安芸国国人連署契約状には「伴兵部大夫経房」が署名していて、伴の在地名を冠する武士の存在が確かめられている。

繁清は伴城に拠り、一族の伴姓を称したものと思われる。


武田信重(兵部大輔・光広) ? -1541

伴繁清の子。武田光和没後、武田信実と家督を争った。1541年毛利氏に銀山城を攻められ、落城し自害した。

不動院には恵瓊の父と伝わる武田刑部少輔の墓がある。


安国寺恵瓊(竹若丸・遥甫・一任斎・正慶) ? -1600

武田信重の子。銀山城落城時家臣戸坂氏に伴われて城を出、安国寺に逃れた。

1553年竺雲恵心と出会い法弟となった。のち京都に上り東福寺に入った。

1569年安芸国の安国寺住持となり、さらに備後鞆の安国寺の住持を兼ねる。

1579年東福寺塔頭退耕庵の庵主となる。毛利氏の外交僧として有名で、1582年備中高松城水攻めの際、毛利氏と羽柴秀吉の講和を成立させた。1585年伊予国中和気郡2万3千石を与えられる。1587年筑前国内で3千石加増。1589年東福寺竜眼庵の本堂を再建。

文禄・慶長の役には従軍僧として朝鮮に渡っている。

1597年東福寺の通天橋をかけかえる。翌年東福寺第224世の住持となる。1599年建仁寺方丈建立。

1600年の関ヶ原の戦いには毛利氏とともに石田三成に味方し、敗れて同年10月1日、京都六条河原で斬首された。63,4歳と思われる。墓は建仁寺にある。



建仁寺に有る安国寺恵瓊の首塚
四郎勝頼の京都祇園日記-建仁寺4

四郎勝頼の京都祇園日記-建仁寺3


安芸守護家一覧


 1.武田信光 1162-1248 武田信義4子 甲斐守護兼任

 2.武田信政  ? -1265 武田信光3子 

 3.武田信時  ? -1289 武田信政長子 1274年蒙古襲来に備えて安芸へ下る

 4.武田時綱    ?   武田信時長子 文永、弘安期、40,50歳

 5.武田信宗  ? -1330 武田時綱長子 鎌倉末期銀山城築城

 6.武田信武  ? -1359 武田信宗長子 甲斐、若狭守護兼任。九州探題

 7.武田直信    ?   武田信武4子

 8.武田氏信  ? -1379 武田信武3子 1367年守護解任

 9.武田信在    ?   武田氏信長子 1397年佐東郡分郡守護確認

10.武田信守    ?   武田氏信2子 1412年佐東郡、山県郡分郡守護確認

11.武田信繁    ?   武田信守長子 1430年安南郡、山県郡分郡守護確認

12.武田信栄 1413-1441 武田信繁長子 若狭守護、尾張知多郡分郡守護兼任

13.武田信賢 1420-1471 武田信繁2子 若狭、丹後守護兼任

14.武田国信 1442-1490 武田信繁3子 若狭、丹後守護兼任

15.武田元信  ? -1521 武田国信2子 若狭、丹後守護兼任

*.武田元綱     ?   武田信繁4子 安芸守護代

16.武田元繁  ? -1517 武田元綱長子 1508年若狭守護家から独立し安芸守護

17.武田光和 1502-1534 武田元繁長子 銀山城主

18.武田信実  ? -1555 武田元光2子 銀山城主。落城後若狭へ戻る



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