2月14日(日曜日晴れくもり



甲斐武田氏総集編①源義光~武田信義兄弟


清和天皇ー貞純親王ー経基王ー源満仲ー長男頼光・弟頼信ー頼義ー義光

 一般に武田氏は清和源氏と呼ばれているが、その清和源氏は上記が通説だったが、源頼光が1046年に石清水八幡宮へ納めた願文には「先人、新発(満仲)、その先経基、その先元平親王、その先陽成天皇、その先清和天皇」と系譜の部分で書かれ又、「曾祖陽成天皇は権現(応神天皇)の18代の孫なり。頼信は彼の天皇の四世の孫なり」と述べられている。『清和源氏』と呼ばれていた源氏は『陽成源氏』と呼ぶのが正しいが、陽成天皇の父は清和天皇であり、経基は二世賜姓ということも変わりなく『清和源氏』の呼称は適用されてもおかしくないと思う。明治の歴史学者星野恒氏は『清和源氏』にこだわった理由を次のように説明している。

「陽成天皇は粗暴な行動が多く、9歳で受禅したにもかかわらず、8年で帝位をおろされた不名誉な天皇であり、しかも頼信の曽祖父にあたる元平親王が誕生したのは父陽成天皇の遜位後のことである。その後胤と称するにははばかられるし、加えて、武家としての宿敵である平氏が桓武天皇という不世出の英主を祖としているのに対抗するうえでもあまりにも具合が悪い。このように主張したのは源頼朝である。」

 竹内理三氏は星野氏説を支持し、「むしろ陽成天皇の暴君としての強い力は兵の祖としてふさわしいと頼信は考えたのではあるまいか」と述べている。

 では「清和源氏」なのか「陽成源氏」なのかを年齢構成で迫ろうと思う。『尊卑分脈』を参考にして考えていきたい。


 清和天皇 850-880   陽成天皇 868-949

 貞純親王 873-916   元平親王 893-958

 源経基   921-961   源経基   921-961


年齢構成で考えるに、経基は貞純親王の死後に生まれている事から、元平親王の皇子とした方が自然である。



甲斐武田氏


清和源氏源義光の2子義清が常陸国那珂郡武田郷に住み武田氏を称した。のち義清は子清光と共に甲斐国市河庄に配流された。清光は巨摩郡逸見郷に住し、逸見氏を称した。

清光の子信義が巨摩郡武田郷に住み武田氏を称し、甲斐源氏の嫡流となった。『角川日本姓子歴史人物大辞典』では、「信義が武田氏を名乗るのは武川庄武田郷という地名によるとするが、この時期に武田郷という地名の存在は確認できない。義清・清光が常陸で名乗っていた武田氏を継承させたものとも考えられる。」とあり、又『日本歴史地名体系・山梨県の地名』では「武田の地は、釜無川上流、駒ケ岳の山麓地帯にあり、かっての官牧真衣野牧に近接した地域である。武田の地名の由来については、地形を表す高田が変化したものであるとか、日本武尊の王子武田王が当地に居住したことから地名として定着したなどといわれている。」と説いている。

信義の信光以降、石和流と信時流と分かれ、甲斐国の守護家は石和流が、安芸国の守護家は信時流が嗣いだ。石和流政義戦死後信時流の信武が安芸、甲斐の守護家となり信武の子孫が守護職を世襲した。


源義光

(新羅三郎・舘三郎・左兵衛尉・刑部丞・常陸介・甲斐守・刑部少輔)1045-1127

源頼義の3子。母は平直方(上野介直方は北条氏の祖)の女。後三年の役に際し、兄義家が奥羽の地に苦戦していることを聞き、奏上して兄の救援に赴くことを請うたが許されず、ついに1087年左兵衛尉の官を辞して戦場に赴き、義家とともに金沢柵で清原武衡・家衡らを破った。

奥州下向の途中、足柄山中において笙の秘曲を豊原時光の遺子時秋に伝えたという伝説は、『古今著聞集』や『時秋物語』等に見えて有名である。

乱が平うだのち、京に帰り、刑部丞に任じられ、常陸介・甲斐守を経て刑部少輔従五位上に至った。

北巨摩郡若神子には甲斐守在任中の居館の跡と伝える所もあるが、義光の伝記に明らかでない点が多い。甲斐守任命のことにしても、『尊卑分脈』『武田系図』等の系図類や『時秋物語』等に見えるだけで、今一つ確実な証拠がない。

1102年2月3日、馬2疋を右大臣忠実に贈ってる。

1109年、郎党の鹿島三郎に命じて源氏の惣領義忠(義家4子)を殺し、義忠暗殺の嫌疑を兄義綱にかぶせて、義綱一族を滅亡に追いやった。目的は源氏の惣領になることだった。事件発覚のときはすでに常陸国佐竹荘に下っていた。この常陸でも義国(義家3子)と私闘を演じていた。


源義光が元服した場所、『新羅善神堂』

『新羅善神堂』の建物は貞和年間(1345-50年)に足利尊氏が寄進したとされ、三間流造で檜皮葺の国宝。

源頼義の新羅明神への祈願から、源氏と園城寺の深い関係ができた。頼義が陸奥の安倍頼時を攻めるに当たって、新羅明神を詣でて戦勝を祈ったとの記録が有る。

その子義光も新羅明神の前で元服し、新羅三郎義光と名乗った。

長兄義家は八幡太郎義家、次兄義綱は賀茂次郎義綱と称した。


四郎勝頼の京都祇園日記-源義光2


源義光墓

四郎勝頼の京都祇園日記-源義光7


四郎勝頼の京都祇園日記-源義光9

四郎勝頼の京都祇園日記-源義光8




源義業(刑部太郎・相模介・左兵衛尉)

源義光の長子。母は甲斐守知家の女。常陸国佐竹郷に住む。室は吉田清幹の女。

佐竹氏祖。


武田義清(音光丸・刑部三郎・武田冠者)1075?ー1149?

源義光の2子。母は常陸国住人鹿島清幹の女。1075年4月16日近江国志賀御所で生まれた。常陸国那珂郡武田郷に住み、武田冠者と称した。

1127年頃には吉田神社、鹿島神社領まで侵して常陸の豪族吉田氏をはじめ土着豪族から恐れられ、ついには1130年12月朝廷に訴えられたのである。『長秋記』に「常陸国武田郷主武田冠者義清の子清光濫行の廉により常陸国司に告発され、次いで父義清とともに甲斐国に配流された」とある。甲斐国には頼信、頼義、義光以来の旧領が有り、難なく甲斐へ入国できた。のちに隣接地の青島荘の下司職を命じられて勢力を盛り返し、市河の平塩の丘に館を構えた。

若神子正覚寺の位牌は1145年死没としており、4年の違いがある。1127年父義光の菩提を弔うために正覚寺を建立したという。しかし1127年はまだ常陸の豪族から恐れられていた時期なのだが・・・?。

『小笠原系図』には1082年4月16日に近江国志賀御所で生まれたとある。


平賀盛義(平賀冠者・四郎・刑部四郎・左兵衛尉)

源義光の3子。信濃国佐久郡平賀に住み平賀氏を称する。


平賀有義(二郎)

平賀盛義の長子。


金津資義(金津小二郎)

平賀有義の長子。越後国蒲原郡木津に拠った。承久の変の時、北条朝時に従い北陸道から上洛した。


金津資直(蔵人・左衛門尉)

金津資義の長子。蒲原郡金津地頭職となり東城に住んだ。『尊卑分脈』に「木津東方」とある。


新津信資(三郎・越前守)

金津資義の2子。蒲原郡金津庄新津西城に住み、新津氏を称した。『尊卑分脈』に「木津西方」とある。


                        

平賀有資(四郎)

平賀有義の子。


平賀有延(七郎)

平賀有義の子。


平賀有信(九郎・念仏)

『尊卑分脈』には見えないが、秋山敬氏は「有義には七郎有延までいたのであるから、その弟に九郎有信がいてもおかしくない。〝有〟字の共有や平賀姓であること、また承久の乱参加の年齢的なものを考えても有義の子であっても矛盾しないから、その可能性は高いと思う」と、述べられている(『安芸逸見氏の系図』)。承久の乱の恩賞として安芸国安芸町村地頭職を与えられた。


深沢有経(五郎・禅心) ?-1294

深沢隆経の子。平賀有信の養子。1237年平賀有信から、安芸国安芸町村地頭職を譲与され、安芸国への足場を得た。1263年実父深沢隆経より甲斐国深沢郷等を譲られた。深沢氏の出自は不明。清和源氏秋山帯刀左衛門光章の後胤と伝えられている。


逸見信経(秋町五郎次郎・大阿)

深沢有経の嫡子。1288年所領を継ぎ秋町信経と称する。逸見氏を称した初見は1342年である。1294年には安芸町を称しているので、その頃までには甲斐から安芸へ来住していたものと思われる。


逸見有朝(四郎・沙弥大円)

秋町信経の嫡子。1336年所領を譲与されてうる。逸見氏への改姓の時期については1336年以前であることは間違いない。有朝は安芸守護である武田信武に忠実に従っている。畿内方面では武田信武に、安芸国では留守を預かってる父信武の代官氏信の指揮に服している。


逸見有経(六郎)

秋町信経の子で、有朝の弟。


逸見信有(豊前守)

秋町信経の子か?


逸見長氏(彦三郎)

秋町信経の子か?1326年3月23日関東下知状には、甲斐国深沢郷地頭として逸見彦三郎長氏の名がみえる。


逸見有直(中務大輔)

逸見信有の子か孫と考えられる。武田信満自害後、有直は鎌倉公方足利持氏と組んで甲斐を実効支配した。甲斐守護職の座を幕府に要求したが、鎌倉公方の勢力の増長を嫌う将軍足利義教に拒絶され、武田信元、次いで信重が守護として復帰した。


佐々毛安義(三郎)

平賀盛義の2子。


大内義信(大内四郎・平賀冠者・義遠・駿河守・武蔵守)

平賀盛義の3子。伊賀国伊賀郡大内郷に住み、大内氏を称する。平治の乱では源義朝につき、最後まで従った。1180年源頼朝が挙兵すると直ちに応じた。1189年の奥州征伐に従軍。2代将軍頼家の乳母の夫であり、1203年10月、3代将軍実朝の元服の時には加冠役を務める。1207年までには没してたようだ。  


犬甘敦義(七郎)

平賀盛義の末子。


大内惟義(大内冠者・相模守・駿河守・武蔵守・修理権大夫)

大内義信の長子。1184年2月、一ノ谷に源義経に従い平家と戦った。同3月伊賀国守護に任じられ、伊勢羽取山に志田義広を追討した。1185年3月美濃国守護を兼務。また1189年の奥州征伐に出陣。1190年の源頼朝上洛及び1195年の再上洛にも随行した。頼朝没後は京都に在住し、京中の治安維持と朝廷との折衝役にあたった。1219年正月27日将軍源実朝が右大臣拝賀のため、鶴岡八幡宮へ御参した際「修理権大夫惟義朝臣」の名が『吾妻鏡』に見える。これ以降惟義の消息は不明。おそらく、この年もしくは翌年に死去したものと思われる。


大内隆信(武蔵二郎)

大内義信の2子。


小野朝信(小野冠者・飯澤五郎)

大内義信の3子。


平賀朝雅(武蔵守・右衛門権佐・朝政) ?-1205

大内義信の4子。母は比企尼(源頼朝の乳母)の3女。執権北条時政の後妻牧の方の娘婿となる。1203年比企氏討伐に加わり、比企氏滅亡、将軍源頼朝幽閉後に京都守護となる。1204年伊賀・伊勢に起こった富田基度・平盛時等の「三日平氏の乱」を平定し、功により伊賀・伊勢両国の守護に任じられた。在京中、畠山重保と不和になり、このことを義母牧の方に訴えたことから、1205年北条時政は畠山重忠・重保父子を討った。同年牧の方が朝雅を将軍に擁立しようとしたが、露顕し、時政は出家して子義時に執権を譲った。義時は在京御家人五条有範・後藤基清・安達親長・佐々木広綱等に命じ、朝雅を京都六角東洞院邸に襲った。朝雅は敗走したが、山内通基によって射殺された。


平賀朝経(四郎二郎)

平賀朝雅の子。母は北条時政の女。


平賀朝村(飛騨守)

平賀朝経の子。


平賀貞経(上総介)

平賀朝村の子。母は城時景の女。


小早川景平(万寸丸・二郎・兵衛尉) ?-1244

大内義信の5子。土肥実平の子、小早川遠平の養子となる。遠平の実子維平が1213年和田氏の乱で和田義盛に味方して没落したので景平の系統が土肥実平の嫡流を継いだとされる。遠平から譲られた安芸国沼田荘を1206年に長子茂平と2子季平に分割譲与し、翌年に将軍源実朝と北条政子の安堵下文を得ている。

小早川氏


大内惟信(駿河守・帯刀長・左衛門尉)

大内惟義の長子。1205年9月牧氏陰謀事件に連座して失脚した叔父平賀朝雅の跡を継いで伊賀・伊勢両国の守護に任じられ、京都守護職として長らく在京し検非違使なども勤めている。承久の変では京方に属し、1230年12月配流に処せられた。


大内惟親(帯刀長・左衛門尉)

大内惟義の子。


大内惟家(右衛門尉) ?-1205

大内惟義の4子。平賀朝雅が討たれた時自害したという。


大内惟時(木工助・和徳院蔵人)

大内惟信の子。  


大内信治(左近将監・従五位下)

大内惟時の子。


竹内氏治(竹内大夫・右京大夫・正四位下)

大内信治の子。

                            

大内惟忠(宣陽門院蔵人・帯刀長・左衛門尉)

大内惟信の2子。


大内家信(宣陽門院蔵人)

大内惟信の3子。


大内惟基(帯刀長・左衛門尉)

大内家信の子。


逸見清光(逸見冠者・上総介) 1110ー1168

武田義清の長子。母は上野介源兼宗の女。『長秋記』の1130年12月30日条に「常陸国司申す、住人清光濫行の事」とあり、この事件により父子共に甲斐国へ配流されたと推察される。谷戸城を根拠としたという。

1110年6月9日常陸国武田郷で生まれた。甲斐国逸見庄に住し逸見冠者といった。逸見庄は塩川の上流、八ヶ岳山麓地帯であり、官牧柏前牧に接して私牧もあり、兵を養うには全く格好の地であった。しかも信濃の佐久や諏訪方面に通ずる交通上の要衝でもあった。市河庄と同じく摂関家の荘園となっていたので、父義清は早くからここへ勢力を伸ばし、清光を庄司としてこの地を押さえさせていたものであろう。北巨摩郡長坂町の陽朝山清光寺(1151年建立)は彼の開基であり、その墓所でもある。


方原師光(刑部三郎・方原二郎)

武田義清の子。三河国方原の下司職となり方原を称した。鎌倉時代、形原城を築いたと伝わる。『三河国二葉松』によれば「頼朝卿時代ニモ在城方原下司次郎師光住」とある。


方原成光(三郎)

方原師光の子。


逸見光長(逸見太郎・上総介) 1142- ?

逸見清光の長子。父清光の跡を継ぎ逸見氏を称する。弟、武田信義と双子という、が双生児説は信をおき難い。『尊卑分脈』に、信義のところだけ「母手輿遊女」とあり、光長の方は単に「母」とあるだけであるが、それはもともと光長の母に関する資料がなかったためであり、二児双生児説は後世の書き込みと思われる。これについて広瀬広一氏は「おそらく信義は手輿遊女の出にして庶流、光長は嫡出の異母兄で、たまたま同年生まれあったのであろう。清光が後継者を定めるに当たり、光長をもって逸見氏を継がせ、これに父祖伝来の地を与え、信義には新領の地を与えて武田を称させたもので、この事情からも、嫡庶本別は明瞭である。後世、武田氏を一族の宗家とするに至ったため、系図にも作為が加えられ、たまたま2人が同年生まれであったことから、同胞双生児説が起こったものであろう。」と説明している。

1180年の挙兵の時、上総介として上総にあり、子供は京都にあって皇嘉門院の院司を務めたりしていたので、消極的であったため甲斐源氏の惣領は自然に武田信義に移っていったものと思われる。

『吾妻鏡』1185年6月5日条に、「上総国人飯富季貞の子宗季を猶子として宗長と改めさせた」と記している。


逸見基義(逸見太郎・義経)

逸見光長の子。皇嘉門院の院司。皇嘉門院は藤原忠通の娘聖子。忠通は逸見荘の荘園領主であったと考えられる。


逸見惟義(逸見太郎・西忍)

逸見基義の長子。承久の変の際関東守護として残り治安と防衛の任に当たった。戦後摂津国三条院勅旨田を与えられた。和泉国守護職になったともいう。1234年の『六波羅御教書』に出てくる逸見入道は和泉守護の立場と思われる。この逸見入道を惟義と推定している。(『大阪府史』)


逸見義重(逸見又太郎)

逸見惟義の子。承久の変には武田信光に従い、美濃国大炊渡りで戦功をあげ、戦後恩賞として美濃国大桑郡を賜った。承久年間に大桑城を築いた。子孫に大桑氏と深津氏(甲斐国巨摩郡)がいる。


逸見有綱(六郎)

逸見惟義の子か?1286年閏11月13日、和泉国久米田寺領のことを施行している。


大桑重氏(又三郎)

逸見義重の3子。


大桑頼隆(大桑太郎・逸見三郎太郎)

大桑重氏の子。大桑郷を相伝する。


大桑氏義(大桑七郎・逸見七郎)

大桑重氏の末子。大桑郷の総領となる。


大桑惟泰(大桑七郎太郎)

大桑氏義の子。大桑郷の総領を継承しているが、以後は不詳。


武田信義(武田太郎・竜光丸) 1142-1200

逸見清光の2子。母は手越遊女。手越は今の静岡市。『卜部本武田系図』には池田遊女とあるが、手越と池田の距離はそう離れてはなく、同一場所での表現の違いと考えられる。

『卜部本武田系図』には1128年8月15日生まれとある。『願成寺記』によれば、13歳の時に源為義を烏帽子親として元服している。

1180年の以仁王の平家追討の令旨に応じ挙兵、甲斐源氏独自の判断で同年8月波志太山で俣野景久、駿河目代橘遠茂等を撃破。8月28日付けの新田義重が平清盛に宛てた書状では「義朝の子は伊豆国を領し武田太郎は甲斐国を領す」と全く同等に扱われている。9月には一条忠頼等と信濃の平家方の管冠者を大田切郷城で自害させ、10月には武田信義、一条忠頼、板垣兼信、武田有義、安田義定、逸見光長等の軍は富士川で平惟盛軍を敗走させ、そのまま駿河、遠江を制圧した。

1183年、源頼朝に与えられた宣旨により、信義及び甲斐源氏は完全に頼朝政権に吸収されてしまった。1184年1月源範頼に従い子忠頼、兼信、信光と共に入京、勢多、宇治で木曽義仲軍と戦い、これを破り義仲を敗死させた。2月、一の谷合戦にも参戦。

最近の研究では信義自殺説が有力になっている。『吾妻鏡』の1186年(文治2年)3月9日条の「九日丁亥、武田信義卒去(年五十九)」とあり、そのまま生没年を確証していたが、1190年11月8日の記事に「武田太郎信義(最末一騎)」と頼朝が上洛して院の六条殿御所に参じたときの随兵に名が見えている。また1194年6月28日に東大寺の四天王像の一つ持国天の造立を命じられており、同年11月21日にも鎌倉の御霊前浜での小笠懸の射手の1人に見える。この事については五味文彦氏が『甲斐国と武田氏』の中で正治2年と文治2年を誤ったのでは無いかと考えておられる。そうなると生没年は康治元(1142)年生まれで正治2(1200)年没となる。

菩提寺は鳳凰山願成寺。


加賀美遠光(加賀美二郎・豊光丸・信濃守)1143-1230

逸見清光の3子。『小笠原系図』によれば母は源義業の女。

甲斐国中巨摩郡加賀美荘を支配し加賀美氏を称する。

1157年11月新田義重の加冠で元服。1180年10月の富士川の戦いでは武田信義とともに平家を破り、1184年9月には源範頼に従って西海へ赴いた。

1185年8月戦功を賞せられ、源頼朝の推挙によって関東御分国の一つ、信濃守に任じられた。

1189年7月には源頼朝に従って奥州征伐に参加した。


秋山光朝(秋山太郎)1158-1185

加賀美遠光の子。小笠原長清の兄。甲斐国中巨摩郡秋山に住み、秋山氏を称した。1175年平知盛に仕え、平重盛の娘を室とした。

1185年2月、壇ノ浦の戦いでは源範頼に従う。戦後すぐに甲斐国へ戻ったことから源頼朝から謀反の嫌疑をかけられ、同年10月鎌倉勢に中野城(雨鳴城説もある)を攻められ戦死した。

子の常葉次郎光季が武田氏に仕えた秋山氏の祖となったと伝える。武田信玄時代に活躍した秋山伯耆守虎繁は光季の子孫である。


小笠原長清(加賀美次郎)1162-1242

加賀美遠光の2子。母は和田義盛の女。

甲斐国中巨摩郡小笠原を本拠とし、小笠原氏を称した。

承久の変に際しては、東山道の大将軍として上洛。その功により、阿波国の守護に補任された。なお『吾妻鏡』1186年10月27日条には、信濃国伴野庄地頭として名が見えてる。


南部光行(南部三郎)

加賀美遠光の3子。甲斐国南巨摩郡南部に土着し南部氏を称した。母は和田義盛の女。1189年源頼朝の陸奥藤原氏討滅の功により、陸奥国糠部郡などを拝領。

1190年11月頼朝に従って上洛。1192年三戸城を築くが11月には鎌倉へ帰参。

しかし小井田幸哉氏は『八戸根城と南部家文書』の中で「元弘3(1333)年5月の鎌倉幕府滅亡以前に、南部氏が奥州に移住した可能性は少ない」と述べられている。

1195年頼朝に従って上洛。1238年2月将軍頼経に従って3度目の上洛をしている。光行は鎌倉在府のまま、将軍家に近侍している。すなわち奥州との間を往来している事実は見いだせない。



加賀美光経(加賀美四郎・経光)

加賀美遠光の4子。はじめ三枝氏族於曾氏を継いで於曾氏を称したが、のち父の跡を継ぎ加賀美氏を称した。


於曾光俊(於曾五郎)

加賀美遠光の5子。兄の光経の跡を継ぎ於曾氏を称した。



安田義定(安田三郎・遠江守)1134-1194

逸見清光の4子。甲斐国山梨郡湯安田を本拠として安田氏を称した。『吾妻鏡』では武田義清の子とある。これは生年に拠るところが大である。兄の遠光より年上だからである。古浅羽本『武田系図』に「実義清末子。養子也」とあり、さらに『吾妻鏡』建久5年8月19日条に、「武田冠者義清4男」とあるから、実は義清の子で、清光の弟であったらしいことが知られる。

1180年8月駿河波志太山で平家方俣野景久、駿河目代橘遠茂らと戦い、これを破った。同年10月の富士川の戦いでは武田信義とともに平家を破った。

1183年7月源義仲が北陸道から都に攻め上がったとき義定も呼応して上洛、京中の守護を分担し、8月には朝廷から従五位下遠江守に叙任された。義定の上洛は源頼朝の命令とは全く無関係に行われ、義定は義仲の同盟軍の立場にあった。しかし、しだいに義仲から離れ、1184年正月、源範頼・義経とともに義仲を討ち、2月の一の谷の合戦にも加わっている。この合戦では義経とともに搦手に属しているが、義経に従ったのではなく、友軍的存在であった。その戦功は範頼・義経と対等、別個に数えられており、義定の手の者は平経正・師盛を討っている。

義定が頼朝に従属するようになったのは、1185年の平氏滅亡以後とみられ、翌年4月義定は鎌倉に赴き臣礼をとっている。

1191年4月、延暦寺僧徒の強訴を防いでいるが、当時義定は大内(禁裏)守護の任にあった。

1193年11月、永福寺薬師堂供養の際、女房の聴聞所に艶書を投げ込んだ咎で、子の義資は斬られ、義定も謹慎を命じられ、所領を没収され、翌年8月義定自身も攻め滅ぼされた。義定の自刃した場所は放光寺といわれ、一説には小田野城ともいう。

『系図纂要』『保田系図』には義定の3子忠義から3代後に湯浅宗重が出ているが、湯浅の住人藤原宗永の子と考えられるので、後の湯浅党保田氏(紀伊国在田郡保田庄)が清和源氏で有る安田氏に繋げたものであろう。


田中義賢(田中太郎・義輔・義資) ?-1193

安田義定の子。甲斐国山梨郡田中より起こったと考えられる。1185年8月身源頼朝の推薦で、頼朝の知行国越後の国司に任じられた。1189年7月、頼朝の奥州征伐に従い、翌年11月の頼朝上洛にも従う。

1193年11月、永福寺薬師堂供養の際、艶書を女房に付けたため、梶原景時の讒言に遭い、頼朝の命により加藤景廉のため鎌倉で殺害された。『甲斐国志』によれば子の三郎義治は肥後国益城郡味木庄で知行を得たという。 


平井清隆(平井四郎) ?ー1180?

逸見清光の5子。東山梨郡平井に館を構え、平井氏を称した。1180年8月23日の相模国小早河の合戦に「甲斐国平井冠者」が平氏方として参戦している。この戦いで討死か?


秋山隆義(四郎太郎)

平井清隆の子。二宮氏も称したらしい。


平井隆頼(二郎)

平井清隆の子。二宮氏も称したらしい。


平井清頼

『吾妻鏡』に射の射手として多く登場している。平井清隆と共通する〝清〟の字を使用している事、甲斐源氏の得意とする〝騎〟射の射手として多く登場する事を考えると清隆の縁に繋がる甲斐源氏であったと思われる。1248年から1253年までの間、7回射手として活躍している。


河内義長(河内五郎・田井小二郎・長義)

逸見清光の6子。河内氏を称した。1180年の挙兵に参戦している。

1185年5月、対馬守護人として、源頼朝の命で源範頼とともに対馬守親光を迎えに行っている。

富士川を下って駿河湾に出た義長が、天野遠景などの伊豆水軍を中心に水軍を編成し、海上からの攻撃で、平家討伐に大きな成果をあげたと推察される。

平家討伐後の義長については、1188年3月15日の鶴岡八幡宮での頼朝の先陣随兵、1190年10月の上洛の際の随兵、1195年2月の上洛の際の随兵に名がある。


田中光義(田中五郎)

河内義長の子。甲斐国山梨郡田中より起こったと考えられる。


田井光義(田井五郎)

逸見清光の7子。田井氏を称した。甲斐国には帰化族で田井氏がおり、この氏を継いで名乗ったと考えられる。


曾根厳尊(曽根禅師)

逸見清光の8子。甲斐国東八代郡上曽根に屋敷を構え、曽根氏を称した。


曾根遠頼(太郎)

曾根厳尊の子。1190年10月、源頼朝上洛の際の随兵に曾根太郎が見える。


奈古義行(奈古十郎・八条院蔵人)

逸見清光の9子。中巨摩郡南湖に土着し、奈古氏を称した。『吾妻鏡』1185年条に、在京して布衣衆として任官随兵していたとみえる。1190年源頼朝入洛の先陣の随兵に名がみえる。


奈古義継(太郎・蔵人)

奈古義行の長子。子の弥太郎信継から米倉氏が出た。


鼻和義俊(三郎)

奈古義行の2子。巨摩郡花輪に住み鼻和氏を称した。


浅原行信(三郎・行延)

奈古義行の3子。巨摩郡浅原に住み浅原氏を称した。


浅原頼行(小三郎)

浅原行信の子。


浅原為頼(八郎) ?-1290

浅原行信の子。所領を失い諸国で悪党狼藉を働き、討伐の触れが廻っていた。

1290年子息らと共に内裏(富小路殿)に乱入、伏見天皇の所在を求めたが、天皇は春日殿に、東宮胤仁親王は常盤井殿に難を避けた。やがて守衛の武士に囲まれ清涼殿で自害した。持明院統の伏見天皇を襲ったことから、大覚寺統の亀山法皇が疑われ、三条実盛が捕らえられた。法皇は鎌倉幕府へ誓紙を送り事なきを得た。


浅利義成(与一・遠義・義遠)1149ー1221

逸見清光の10子。東八代郡浅利に屋敷を構え、浅利氏を称した。1184年11月15日の年記のある八代郡石橋郷の八幡宮棟札に「与市能成」の名がみえる。

壇ノ浦の戦いでは弓の名手として登場している。1189年の源頼朝の奥州征伐にも武田有義・信光とともに出陣している。この時の恩賞として出羽国比内地方に所領を得た。1190年源頼朝入洛の先陣の随兵として名がみえる。1195年頼朝が石清水八幡宮より奈良入りの際、後方の随兵として名がみえる。このような随兵として『吾妻鏡』に名がみえるのは1189年6月9日から1195年5月20日の間で7回みられる。


浅利知義(浅利太郎)

浅利義成の長子。1221年の承久の乱に幕府の武田信光軍として従軍。戦後近江国内に領地を得た可能性がある。「浅利太郎、近江国山崎、岡等祖」という系図が残っている。1226年5月幕命により結城朝広とともに陸奥国白河で忍寂の一党を追討した。南北朝内乱期には、比内郡に源姓浅利六郎四郎清連が領主として君臨している。武田信玄の時代に活躍した浅利信種は知義の子孫である。


八代信清(八代余一・与三)

逸見清光の11子。東八代郡八代に屋敷を構え、八代氏を称した。


利見義氏(利見余一)

逸見清光の12子。利見氏を称するも発祥地不明。


利見遠信(余一)

利見義氏の子。


田井長義(田井小太郎)

逸見清光の13子。


逸見道光(修理亮)

逸見清光の14子。


逸見光賢(修理亮)

逸見清光の15子。



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